恋より遠く、愛に近い-第48話-
判断は最終的に見る側、受け取る側に委ねられるものであり、本人の意図しない結果に終わるというのもよくあることである。
そういうわけで(そういうわけでは決してないのだが)、明夜星カイトは先の注意(第47話である)も忘れ、あえかに身を屈めて名無星カイトを覗きこむ姿勢となり、首を傾げた。
「ぇえっと……改めて、お伺いします?うちのおとうとと、カイトさん、どういったご関係でしょう」
「そうだな」
問いかけに、名無星カイトは端然と頷いた。
「そういう関係だ」
「………」
誤魔化したとも取れる(そうとしか取れない)名無星カイトの答えに、明夜星カイトはぱちりとひとつ、瞬いた。
ぱちりとひとつ瞬いて、体を戻す。きちんと目線を合わせてから、また、首を傾げた。
「じゃあ、やっぱりだめです。不合格です。うちのおとうとがカイトさんの行動制限していい理由になりません。ので、おれからだめだって、いいます」
「やめろ」
ほとんど反射で遮ってから、名無星カイトは思いきり渋面となった。
やられたと思う。なにをというのはともかく、やられた。引っかかった。
案の定で、相当にきつい制止となったにも関わらず、明夜星カイトに驚いた様子はなかった。むしろ静けさをもって、透明に、澄んで、名無星カイトを見ている。観察し、量っている。
わかっていて、わかるのに、口は止まらない。止められない。なぜか。なぜか――
「おまえが言うな。おまえが言うのはだめだ――おまえ、これ以上、おとうとのことを追いつめようとするな」
「カイトくーーーん?」
――ここでのんびりとした声を挟んだのは、明夜星甲斐だった。
ところで何度でもくり返すが、曰くの『カイト』、KAITOはこの場にふたりいる。が、呼ぶほうにしろ呼ばれるほうにしろ、なんとなし、どちらのことかきちんと理解している。機微に敏い【がくぽ】だけでなく、万事おっとり鷹揚なKAITOであってもだ。
そのはずだが、甲斐に顔を向けたのは今回呼ばれたほうである名無星カイトだけでなく、明夜星カイトもだった。
それで、曰くだ。
「終わってないよね、マスター?」
先に口を開いたのも明夜星カイトのほうであり、訊くのみならずにこにこと笑って小首を傾げた。にこにこだ。
もしもここに名無星がくぽがいたなら、思わず足を引いていただろう。そうでなければ腰が引けるか、とにかくなにかしら引いている。言い換えるなら、逃げている(どういうことかと思われるなら、第12話あたりを参照されるといい)。
その明夜星カイトをどこか呆れたように横目に見て、名無星カイトは小さく首を振った。横である。意味合いは否定というより、諦念――
それから甲斐へ、憐れむ目を向けた。
「――途中で手を止めると、作業を忘れてイチからやり直しになるぞ?」
うちの子カイトからにこにこ笑顔を向けられて両手を掲げていた甲斐は、目線だけで軽く、天を仰いだ。
「ご忠告、まことに痛み入ります………」
言って、甲斐は片手で自分の口の端をつまみ、反対端へと引くジェスチュアを見せた。『お口チャック』である。もう口は閉じて、余計な言葉は挟みませんよという。
しかし表情は晴れず、作業を再開する様子もない。視線も逸らさず、相対するKAITOを見ている。
そういう、マスターからじじじっと監視されているような状況なのだが、明夜星カイトは気にしなかった。さっさと名無星カイトへ向き直ると、笑みを消す。
「『これ以上』ってどういうこと?です?」
苛立ちは見えなかったが、声音は固かった。
対する、名無星カイトだ。なんだかんだあれ、甲斐の介入タイミングは絶妙だった。おかげで頭が冷えた。
逆を言えば、冷やさなければいけないほど『熱く』なったということだ。あんな程度のことで逆上した。あんな程度でも、明夜星がくぽが関わることであると――
逆上して、余計なことを言った。
それが逆上するということだが、結果だ。
笑みを消して見つめる明夜星カイトの瞳には、懸命な色がある。ここ最近、妙に疎遠になってしまった最愛のおとうとの、どうにも名無星カイトへ『乗り換えた』ように見える相手の、その理由が掴めるのではないかと。
だからといって別に、明夜星カイトはふたりの男から想われたいわけではあるまい――恋人とおとうと、ベクトルはまったく別だ。
まったく別に、けれど愛おしい男『たち』。
問題はそこだ。
「おまえのおとうとは、俺のおとうとに遠慮しているだけだ。俺のおとうと――おまえの恋人に。おまえに問題があるとすれば、恋人に【がくぽ】を選んだことくらいだ」
「どうして」
ほとんど反射で訊き返した明夜星カイトの、その『どうして』が求める答えはひとつではなかった。
――どうしておとうとが、カイトの恋人に遠慮しなければいけないのか。
――どうして恋人に【がくぽ】を選んだことが問題となるのか。
難解な言い回しをされたわけでなくとも、理解に苦しむことというのは存在する。これもそうだった。
確かに、恋人ができたあたりからだ。おとうとの態度が疎遠となったのは。
だからそれとこれとに因果関係があると言われれば、むしろ否定の根拠こそ薄い。
が、しかしだ。かかしだ。
なんだっておとうとが、恋人に遠慮しなければいけないのかが明夜星カイトにはわからない。なぜならおとうとだ。『おとうと』なのだ。
確かに恋人だとて大切だが、おとうとはそれとはまたまったく別に大切な、家族だというのに――
そこで明夜星カイトの思考がループに嵌まって進まなくなることは、名無星カイトにもよくわかっていた。であればこそ、あれだけわかりやすくアプローチしていた明夜星がくぽが惨敗したのだから。
明夜星カイトにとって『家族』とは、そういうものなのだ。
もうひとつ言うなら、よりにもよって選んだ相手が【がくぽ】であることを糾弾された意味もわからないだろう。
『名無星がくぽ』を選んだことではない。同性、同じ男を選んだことでもない。
糾弾されているのは【がくぽ】という機体、機種を選んだことだ。
――これがもし、言われずとも理解できるようであれば、おとうとと疎遠になったことを明夜星カイトもこうまで嘆きはしなかっただろう。
いや、それどころか、おとうとのことをもう少し、思いやってやったはずだ。好きなものは好きなのだから仕様がないとしても、自分が選んだ相手のために不自由をかけると。
「【がくぽ】が嫉妬深いっていうのは、おまえ、知ってるな」
「ってる。ます、けど……でもっ」
――だとしても、明夜星【がくぽ】はおとうとだ。
名無星がくぽ、頼りがいがあってやさしい恋人もまた、【がくぽ】の例に漏れず嫉妬深いとしてもだ、おとうとはおとうとだ。家族なのだ。カイトが慈しみ、育ててきた相手であることを、もちろん恋人とて知っている。
恋人ができたところでその情愛が揺らぐことはなく、今後もきっとずっと愛おしみ、こころを懸けて育てていく相手であることを。
揺らぐ瞳をさらに揺らがせた明夜星カイトに、名無星カイトは眉をひそめた。
「あいつらはな、『マスター』にすら妬くんだぞ。自分たちだってロイドで、『マスター』ってのがどういうものか、それこそ理解を超えて骨身に沁みてるはずだってのに、それでも妬くんだ。だっていうのに『おとうと』?そんなもん、そこらの馬の骨と意味合いが変わるもんか。敵以外、なり得ない」
厳しい言葉を淡々と、まるで淀みなく並べた名無星カイトに、明夜星カイトの瞳は堪えきれず潤んだ。
――兄とは折り合いが悪い。とにかく厳しく、そなたと同じKAITOとは思えぬほど激しい兄でな……
初めて会ったころからずっと、名無星がくぽはそう言い続けた。兄とは不仲だと。
最初は、そうなのかと思った。同じ屋根の下で暮らす家族と仲が悪いというのは、どれほどつらいだろうかと。
けれど話を聞いているうち、少し違うと思い始めた。
少し違うと思い、そして恋人となってからようやく名無星カイトと会い、あるいは兄と過ごす恋人の姿を見て――
こじれて、こんがらかって、ずいぶんしっちゃかめっちゃかになってしまっているけれど、ちがうんだと。
そう、思ったのに。
そう、思ったというのに――
名無星カイトはおとうとは信頼に値しないときっぱり決めつけており、言い方は冷酷を極めた。
多少の不信感や、心配ではない。
この件に関して、おとうとに情状酌量の余地などまるでないと。
「っなこと、ない、も……っ!がくぽは、おとうとだからって、おれがっ」
「やめろ!」
涙を堪えて懸命に反駁した明夜星カイトを、名無星カイトは先より強く制止した。怒声だが、のどの奥が震えるような、恐怖が奥底に閉じこめられた――
怒鳴られたことに一瞬はびくりと竦んだものの、明夜星カイトはあえかに掴んだ端緒を離すことなく、名無星カイトから一歩も退かずに対した。
その、名無星カイトだ。
激情を呑みこむために明夜星カイトから完全に顔を逸らし、がしがしと頭を掻いた。
がしがしと頭を掻き、わずかな逡巡の間を置いて、一度、きつくくちびるを引き結んだ。くちびるを引き結び、瞼もきつく閉じる。
次に開いた瞳は、今にもこぼれそうなほど瞳を潤ませながらも一歩も退かずにいる明夜星カイトと、真正面から対した。
そうやって名無星カイトは明夜星カイトを見据え、静かに、端然と、吐き出した。
「明夜星カイト。おまえ、――にぶいのもいい加減にしろ」
「っっ!」
あまりの衝撃に束の間、駆動系が飛んでまったく動きが止まった明夜星カイトの後ろで、がたりと音がした。甲斐だ。反射で腰を浮かせた。
名無星カイトは明夜星カイトを見つめたまま目をやらなかったが、甲斐はきっとひどく厳しい表情をしているだろうとはわかった。
それでも口を出さずに堪えたのは、出宵のように『関わるのコワイ』が理由ではないだろう。
まだ、信頼してくれている――
他人のロイドであっても名無星カイトを、たとえどれだけらしからずらしからぬと言われようとも、KAITOであれば。名無星カイトを『KAITOである』と思えばこその。
――ほんのわずかな間を置き、明夜星カイトは再起動した。再起動した途端、消しきれなかった衝撃に視界と足が諸共にぐらつき、倒れかける。
その体を名無星カイトがさっと拾い、出してはあっても誰も座っていなかったパイプ椅子へ誘導、まるで明夜星カイトが元からそうするつもりでしかなかったかのようにスムースに、腰を着地させる。
名無星カイトの誘導はあまりに完璧であり、曰くの『にぶい』KAITOの動きではまるでなかった。新型の、それこそ【がくぽ】を想起させるほどのスマートなエスコートぶりだった。
もしも状況が状況であれば、明夜星カイトはいつものように夢見心地の気分を味わっただろう。頬どころか全身を朱に染め、陶然と見入り、名無星カイトを賛美して止まなかったはずだ。
KAITOであるのに、こうまでできるなんてと。
KAITOであっても、こうまでできるのだと。
――同じ、KAITOであるというのに。
「………おんなしことだぞ、明夜星カイト」
座ったところで危うい均衡を醸す明夜星カイトを見つめ、名無星カイトは静かにこぼした。静かに、やわらかく。
ただ黙って見つめるだけの明夜星カイトの瞳は深く、あまりに深く、色も光も吸い取られるほどに深かった。
それでも臆することなく見返し、名無星カイトはゆっくりあとを続けた。
「【がくぽ】に、そんなことで嫉妬するなって言うのは、おんなしことだ。俺が今、おまえに言ったことと――したくてしてるわけじゃない。したいからするんじゃない。したくなんかない。やれるんならやってる。でもだめなんだ。『それががくぽ』だから」
「っ!」
虚ろを宿しかけていた明夜星カイトの瞳が、名無星カイトのこぼした結論にはたと見開かれた。見開かれ、色を戻し、光を宿す。
くちびるが開きかけ、戦慄いて止まった。
それでも明夜星カイトが言いかけて止めたことをきちんと拾い上げ、名無星カイトは頷いた。
「KAITOだってロイドで、今はスペックだって上がってる。なのにどうしてそう、とろくさいんだって、にぶいんだって…そんなこと言われたって、仕様がないだろ。それとこれとはまったく別問題なんだから。だいたい、低スペックだから=おっとりしてるってなら、MEIKOなんかどう説明するんだ。そうじゃない――KAITOっていうのは『そういうもの』だって、もう、『決まってる』んだ」
先に、明夜星カイトが名無星カイトの言葉に意識まで飛ばしたのは、単純に、それだけショックだったからだ。
――にぶいのもいい加減にしろ。
確かに、言葉自体がまずきつい。が、それ以上にだ。
どうにもできない部分を、責められた。それも憧れのカイトさんに、『同じ』であるはずのKAITOに。
ロイドでも努力すれば克服できる分野と、いかに努力しても克服し難い、克服できない分野というものがある。
そしてこれは克服し難いか、できない分野に属する問題だ。
なぜなら『KAITOとはこういうもの』とまず、定義されている部分に関わるからだ。
人間ではない。ロイドだ。ロイドの基幹定義に関わる問題なのである。
ゆえに、やる気になればできるはずというものではなく、決してできないか、やるに非常な困難を伴うかという(であればこそさらに、名無星カイトのらしからずらしからぬというところの異質さが際立ってくるわけだが)。
人間ではない。ロイドだ。限界の設定や突破は、人間とはまるで方式が異なる。
KAITOのその、『そんなこと言われても』に当たるものが、【がくぽ】にとっては『マスター』にすら向くという、度し難いまでの嫉妬心であると。
相手の絶対的な独占を望み、寡占を願い、時に肝心の恋人にすら牙を剥く、狂暴で、凶悪な。
情報処理能力の高さを下支えする、繊細に機微を読む性質が裏目に出たとよく言われるが、特徴とされる古式ゆかしいサムライの気質も関係しているだろう。
情に強く、懐に容れたものを過剰なまでに庇護しようと欲する。
「………俺は、おまえを今、『傷つけよう』と思って傷つけたけど」
ゆっくり噛んでふくめるようにしている説明が、さらにゆっくりと明夜星カイトに浸透していくのを見計らい、名無星カイトは先を続けた。
はっとして腰を浮かした明夜星カイトを、その肩を押して椅子に戻し、名無星カイトは瞳を細めた。睨んだのではない。先と同じだ。そこには痛みがあり、悲哀があり、恐怖がある。いったいなにに?
「たとえばおとうとが……おまえの恋人が、おまえに、なんの気もなしにそう言ったら、おまえはどう思う?おまえが全部、善意で、なんの悪気もなくがくぽに…俺のおとうとに『そう』言ったなら、――どうなるんだ?」