空気が凍る瞬間というものは、実際ある。今がまさにそうだった。
一瞬、束の間ではあれ、確かに空気が凍った。痛いほど張り詰め、次いでふつふつと――
恋より遠く、愛に近い-第58話-
つけつけと乱暴なことを言い放った兄に、名無星がくぽはとうとう堪えきれず、口を開いた。
「話し合いをしていたが?そもそもおまえが話し合えと言ったんだろうが」
思いきり引きつって放った声はその不快さの度合いを示し、一段どころか、三段ほども低く、這っていた。
とはいえこのきょうだいにおいてこれは、ごく日常的な反応とも言えた(ここ最近はずいぶんなくなっていたが、まったくないわけではない。なにしろ兄は兄だし、おとうともおとうとだからだ)。
案の定で名無星カイトが怯えたり、自分の発言のまずさを省みたりするようなことはなかった。KAITOとも思えない素早さで、反論に口を開く――
寸前、明夜星カイトがぐっと、カウンタへ身を乗り出した。
「がっ、がくぽはやさしーし、おれのこと、大事にしてくれてるのでっ!すっごく、大事にしてくれてるますのでっ!おれにさわるの、とりあえずは、しないっ!ませんっ!!」
耳からうなじから、肌という肌を真っ赤に染め上げ、名無星カイト、『憧れのカイトさん』へ叫ぶ。
「………カイト」
きゅううっとしがみつく恋人へ顔を向けつつ、名無星がくぽは昂ぶって灼き切れそうな気がしていた駆動系が一瞬で鎮まるのを感じた。我ながら現金だと、そんなことを思う余裕さえ戻る。
直前の、ほんのわずかに気にかかった程度の恋人の『変化』が、名無星がくぽにはこれで確定的に伝わった。
赦されたと。
確信した瞬間、名無星がくぽは冷水を浴びせられたような心地となった。
どうしてあんな意地を張ったりして、最愛の相手を困らせたりしてしまったのだろうと。
それまでずっと煮え立っているような心地がしていた思考が、恋人に赦されたことを知って冷静さを取り戻した。
そこまではいいのだが、冷静になるということは、自分が冷静さを失った挙句になにをやったか、理解できるようになったということでもある。
兄に連れられて飛びこんできたときの状況を考えても、きっと向こうを出るときにも『ああ』いった感じで、だから甲斐は心配して名無星家を訪れたのだろうに、それを恋人もわかっていたから安心させてやりたかったのだろうに、それこそがもっとも当然でまっとうな反応で判断だというのに――
なんて自分は思いやりのない、やさしさの欠片もない男なのだろうと。
打ちひしがれて固まった名無星がくぽの耳に飛びこんできたのは、兄の声だ。なぜかひどく愉快そうに、笑いを含んでやわらかい。
「へえ、そうか?おまえ、俺のおとうとに、そんなに大事にされてるのか?ほんとに?」
――大事になど、してやれていない!
ことが、今まさに、名無星がくぽは身に沁みたところだ。
たとえどれほど響きがやさしかろうと、恋人への兄のこの問いかけは、名無星がくぽにとってはさらなる断罪以外のなにものでもなかった。
対して、問われた当人、明夜星カイトである。
「そっ……っ」
そんなことは当然だと反射で返そうとして、しかし一度、言葉を呑んだ。
どつぼに嵌まった恋人同様、『そういえば大事にされてるのかな?』などという疑いを持ったためではない。
問う、名無星カイトが含ませた意図に、奇跡的に気がつけたからだ。
そう、名無星カイトが問うのは、『今』の発言の真偽だけではない。
『今日』だ。
『今日』であり、これまでであり、これからの――
スタジオで話した結果、名無星家へねこみみにゃーごと放りこまれることとなった、今日の一連の。
ひいてはこれまでの、これから先の、すべてを含めた。
名無星カイトは、明夜星カイトに問うている。
恋人に、名無星カイトが大事にだいじに愛するおとうとに、明夜星カイトはなにより大事にされているのだと、愛されているのだと、ほんとうに理解したのかと。
――理解したと思ったのに、途端にこんな騒ぎを起こした。
『そんなこと当然だ』と返したところで、どれほど信憑性の薄いことだろう。どうしたらそれを、証明しきれるものか。
挙句の果てにだ。
「カイト」
「…っ」
咄嗟に黙ってしまった恋人を案じたのだろう。思わしげに、庇うように声をかけてきた名無星がくぽだ。
呼ばれて反射で顔を向け、花色の瞳と見合って、明夜星カイトは愕然とした。
なんてきずついた、なんてかなしい花色なのかと。
傷ついて、ずたずたな瞳だった。それでも懸命に恋人を守ろうと、足掻きもがいている。なんて儚く、脆く、うつくしく――
やさし過ぎて、かなしい。
――ロイドに直感が働くかどうかは未だ議論のさなかであって結論もないが、しかしKAITOは頻繁に直感様のものを示すと言われている。
明夜星カイトがこのとき閃いたのも、おそらくこれだった。証明されきっていなくとも、確かにあるもの。
――企画を通すとき、『上』には言わない意図が二つ三つあるのなんて、フツウだろ。
閃いたのは、第49話だ。今回の企画へこめた意図について、あまりに当然とばかりにこぼした名無星カイトの。
名無星カイトとは、『そう』いう手合いだった。それが通常で、常態である相手。
であればこそ情報処理能力の高さを誇る機種が、口癖としてぼやく。
兄はほんとうにKAITOなのかと。
その名無星カイトが、明夜星カイトに言った。
愛されていることに気づけと。
誰より大事にされていることに気がつけと。
――気がついたなら、どうするだろう?
気がついたなら、重さに耐えかね、おそれをなして逃げるのかもしれない。
気がついたなら、増長し、さらなるものを要求するようになるのかもしれない。
気がついたなら――
明夜星カイトは、愛を返す。
届くか、足りるか不明でも、それでも懸命に愛を返そうとするだろう。
届かず、不足かもしれなくても、精いっぱいに相手を大事にする。
たとえ届かないまま不足かもしれなくても、自分にできることを、惜しまず、尽くす。
――だから、気がつけと、名無星カイトは言った。ああまで強引な手を使っても、求めた。
気がつかなければ、ずっと届かず、ずっと不足で、ずっとできないから。
気がついて、おとうとを愛してやってくれと。
気がついて、おとうとを大事にしてやってくれと。
大事に、愛おしみに慈しむおとうとであれば、どうか――
「にっ……っ」
恋人から目を逸らさないことは、ひどく難しかった。それでもやった。
ふわふわというよりはぶわぶわというほうがふさわしいような様子で明夜星カイトは肌という肌を朱に染め、揺らぐ湖面の瞳をさらに湖面のように揺らがせ、こぼれるほど潤ませて、恋人を見返した。
ほとんど爪が立つほど、繋ぐ腕にしがみつく。
どうかあまりいたいおもいをしていませんようにと片隅で祈りながらもしがみつき、明夜星カイトは名無星がくぽ、最愛を捧げてくれる恋人へ、告げた。
「にゃー………っ」
「…っ」
意想外を突かれたと、名無星がくぽは素直に花色の瞳を見張った。きょとんとして、小さな、掠れて消えそうなほどの小さな声で、でありながらひどく力強く自分へと啼いた恋人に見入る。
――これ以上のものがいるだろうかと。
名無星がくぽのくちびるがあえかに綻び、瞳がほのかにやわらいだ。
ほんのわずかな変化であっても、届いたのだと、受けて明夜星カイトの瞳も輝く。
「ふっ、ははっ!」
その恋人たちの間に割り入ったのは、名無星カイトの笑う声だった。弾けるように、朗らかに笑う――
こころの底から愉快だとばかりの笑い声に、名無星がくぽと明夜星カイトは反射でぱっと、顔を向けた。
受けて、名無星カイトはいったいなんと返したか?
「かわいいな。かわいい。けどそれじゃ、なに言ったんだかさっぱりわからない!」
そんなわけがないだろうというのは、明夜星カイトですら思ったことだった。
もしも名無星カイトが自分と同じことをやったなら、明夜星カイトにはほんとうにわからないだろう。けれど、名無星カイトはわかるはずだ。わかったはずだ。わかっている。わかったうえで――
明夜星がくぽの腕からするりと抜け、名無星カイトはキッチンからカウンタへ、軽く、身を乗り出した。なんの気もないように、片手を振るう。
ぱんと、張ったのはおとうとの頬だ。ようやくわずかに緩んだが、未だ後悔の渦中にあって眩む――
「っ?!」
それにしても、いくら仲が険悪であっても、これまで手を出されたことはなかった名無星がくぽだ(名無星がくぽもまた、兄に手を上げるといったことだけは決してしなかった。胸座を掴むといったことすらだ)。
上がった音に違わない軽い力ではあったが、相応に痛い。それもどうしてか、張られた頬よりも胸のうちこそが。
あまりに痛む胸ゆえにキレることもできず、ただ愕然と見返したおとうとの瞳を、兄は臆することなく受けた。
厳然と、くちびるが開く。
「おまえは間違ってない」
「っっ!!」
確信に満ちた言いに、名無星がくぽはさらに愕然と兄を見返した。が、もちろん、先のものと今のでは、方向性が違う。まったく違う。正反対もいいところだ。
愕然と見つめるばかりのおとうとへ、兄はいつもと変わらず、端然と続けた。
「いつも言ってるだろ。ツメが甘いだけだ。――おまえは間違ってない」
端然としながらも反論を赦さない強さで、名無星がくぽの兄は言いきった。
つまり、と。
全体に働きのにぶくなっている名無星がくぽは、からからと、懸命に思考を空回した。
今の張り手は、気つけか。気つけだ。
無様な後悔に苛まれ、溺れ、呑まれようとするおとうとに、しっかりしろと。とっとと立ち直れという。
後悔に苛まれるだけならくり返す過ちでも、これを糧に立ち直れば、おまえはきちんとうまくやれるようになるはずだろうと。
やはり厳しい兄だと、名無星がくぽは思う。
やさしさがない。いや、やさしさが厳しい。
これまでの関係性がある。こうまでされては、名無星がくぽはいやでも反発せずにはおれない。いやでも立ち直らずには。
兄の前でいつまでもめそめそくよくよしていて堪るものかと、いずれ必ずこの兄に、見込んだ甲斐があったと言わせてみせると――
自分が彼のおとうとであることを、誇ってもらえるように。
誇りとともに、名無星がくぽ自らそう、口にできるように。
おとうとの瞳に徐々に光が戻るさまを逐一確かめることはなく、その頬を張った名無星カイトの手は、今度、明夜星カイトへ飛んだ。
明夜星カイトの前髪を梳き上げ、くしゃりと掻き撫ぜる。
一転、名無星カイトの表情は綻び、やわらかに笑った。
「悪かった。言い過ぎたな」
「んんっ……っ」
明夜星カイトには、名無星カイトの言葉に『また』が隠れているように感じられた(関連付けたのは、第49話である)。
こうやって『種明かし』をされれば、やはり負わなくていい傷を負ったのは『また』、名無星カイトひとりだと思うのに――
しかし明夜星カイトがなにか、言うべきことを思いつくより先に、名無星カイトの手は引いていった。
ただし今度は、名無星カイトの意思ではない。
「………おまえはなにをしている」
表情も感情もすっかり失って、名無星カイトは淡々とつぶやいた。
彼が唐突に表情も感情も失った理由は、簡単だ。どういった表情を、どういった感情を当てはめればいいのか、まったくわからなくなったからだ。
――理由は単純にして明快だが、そうそう起こる状況でもない。
しかしてそうそう起こる状況でもないものを頻発させるのが明夜星がくぽ、意味不明を成型して服を着せたものであった。
別の言い方をすれば、足もとにまつわりついて離れないころもこ毛玉ボール期のこいぬ、実態に即した言い方をするなら、祓い方のわからない背後霊である。
不覚にも一瞬は逃れることを赦してしまった明夜星がくぽであるが、すぐに追いかけ、またも名無星カイトの背に取り憑いたもとい、背後から抱えこんだ。
だけでなく兄を撫でる名無星カイトの手、袖をつまむと、くいくいと引き戻したのだ。
くいくいだ。ぐいぐいではない。
そうまで強い力の、そうまで強引なやり口ではなかったのだが、背中を熱に覆われる感触に、いわば虚を突かれた心地となった名無星カイトは求められるまま、素直に手を戻してしまった。
それで、手を引き戻した明夜星がくぽである。戻った手の甲を覆うように掴むと、自分の頭へ導き、ぽふりと伸せた。
さあ、なでなでを続けるが良いという――
きっと訳すなら、そういう――
わかっても、わかったところで、それでも訊かずにはおれないことというのがある。
なにをしているのかと。
実は初め、おまえはかまってちゃんかとこぼしかけた名無星カイトだが、これはすんでのところで呑みこんだ。
今さらも過ぎる。かまってちゃんである。
明夜星がくぽがかまってちゃんでないなら、この世にかまってちゃんなど存在しない。なんだと思ってたのと、逆にアタマの中身を疑われてもまったく文句が言えない(この内容で、まさか文句を言えないのである。こんな不条理があるだろうか。あるのである。明夜星がくぽが相手だと、ことに頻繁に)。
さてそれで、訊かれた明夜星がくぽである。
大好きな兄をなでなでする手を奪い、自分をこそとなでなでさせているおとうとである。
かまってちゃんかと腐されるのではなく、なにをしているのかと問い質されてしまった男である。
首を傾げた。
「ぇえと、なんとなく………?」