明夜星がくぽにしては珍しく、返したのはひどく覚束ない声であった。背後なので名無星カイトには見えないが、首を捻っている気配もある。

いや、気配というか、なんだかんだ言いつつも名無星カイトはきちんと明夜星がくぽの頭をなでなでしてやっていたので、首を捻れば手の位置も意図せずずれるからわかるという話なのだが。

それはともかくだ。

よりく、-59-

明夜星がくぽがとうとう、自分ですら自分の行動が意味不明で理解できないと首を捻ったのは、そう長い時間ではなかった。

ほとんどすぐ立ち直ると、名無星カイトを抱えこむ腕にきゅううっと、きつく、力をこめる。肩から顔を乗り出し気味にすると、びったり張りついたままきろりと名無星カイトを睨み、喚いた。

「だってあんたが僕のこと構ってくれないからどれだけ僕を放っておけば気が済むのさ!」

だからおまえはかまってちゃんなのかと――

よほど言いたかった名無星カイトであるが、先述の通りである。かまってちゃんである。かまってちゃん以外のなにものだというのか。

問い返されたなら、あまえんぼうのわがまま王子だろうと答えるしかない。苦しまぎれもいいところだし、最終的に同じ意味であり、疑われるのはやはり、こちらのアタマだ。不条理が極まった

「はあ…?」

ほとんど諦念しかなかったが、一応、名無星カイトは疑義を呈しておいた。そうでなければ同意したと社会的には見なされる。これもまた不条理である。

それで、まったく意味も効果もないとは思うが疑義を呈した手前、念のため振り返る。名無星カイトはいったい、どれほどの時間、明夜星がくぽを放り置いて構ってやらなかったのか?(もしもご自身でも計測したいようであれば、だいたい第58話のみの振り返りで十分かと思われる)

五分もない。

いや、三分すらない――一分か、二分か。

もしも名無星カイトがあの、某星雲から来訪するというウルトラな一族だったとしたらだ、このわずかな時間すら与えられないのでは、地球の平和を守るなどとてもできなかっただろう。真の敵は怪獣ではない。身内にいた(しかしてこれはさして目新しくもない、よくある話である)

で、その身内のモンストロスもとい、背後霊なころもこ毛玉ボール期のこいぬである。図鑑で調べるときには【あかるやぼしがくぽ】と引く(掲載されているかどうかまでは保証の限りではない)

「あのね、僕があんたに張りついてるからって、気を抜かないでほしいんだよね。僕が張りついているのは僕が張りついているんであって、あんたが僕を構って甘やかしてくれてるってことじゃないの。わかる?」

わからない。

張りついているのを許容している時点でかなりの構いぶりであると名無星カイトなどは思うのであるが、とりあえずである。

この、身内のモンストロスもとい、背後霊なころもこ毛玉ボール期のこいぬ、図鑑で調べるときには【あかるやぼしがくぽ】と引く相手の主張に、名無星カイトはどう返したか?

「はいはい……あー…………よしよし」

――諦念とともに非常に適当に返された名無星カイトの答えを、明夜星がくぽはどう受けたか?

「んっ、わかれば良しっ」

わかったわけではない。

わかったつもりはないが否定する気もなく、名無星カイトはわずかに力を強め、明夜星がくぽの頭をぐしゃぐしゃと掻き撫ぜた。

ひと息の間ほど撫で回してやって、カウンタ向こうの恋人たちへ顔を向ける。

恋人たちはふたりとも、なぜか目のやり場に困っているようにそわついていたが、もちろん名無星カイトが構うことはなかった。まるで構わず、やわらかに笑いかける。

「今日はココアを飲ませてやるよ。とっておきに…」

「待て兄」

「やめて」

――とっておきにおいしいやつをと。

名無星カイトのいつもの(しかし飽き足らず非常に効果的な)贖罪は、名無星がくぽと明夜星がくぽとが同時に上げた声によって無慈悲に潰された。

『いつもの』であれば、すでに後半の台詞を聞いたも同然できらぴかと表情を輝かせていた明夜星カイトが、しかし実はもっとも大事なところがツブされたということに遅れて気がつき、きょとんとする。

次いで非常に情けない表情となると、『いつもの』を妨害した恋人とおとうととを忙しなく見比べた(やはり病みつき以上の、廃人の傾向が見える)

ところで名無星カイトにとってもこの、おとうと連合のコンビネーションは意想外だった。鳩が豆鉄砲を食ったようということわざの見本そのものの表情となり、咄嗟に応じられないまま固まる。

そんな兄ふたりに対し、突然結成されたおとうと連合はいかにも頭が痛いという渋面で続けた。

「せめて今日だけでいい。手を抜け、いや、抜いてくれ、兄」

「まずくしてとまでは言わないんだけど、ほどほどにしてほしいんだよね、ほどほどに…」

「はあ?」

「ぇええぅうっ、にゃ、にゃんで、にゃ……にゃぁあああっ……っ」

――明夜星カイトはすっかり、なんというか、馴染んだようである。なにがとは言わないが、とても馴染んだようだ。

名無星カイトはおとうとたちにも負けない渋面となっただけだったが、明夜星カイトは涙目となって、無慈悲も極まることを言う恋人に縋りつき、啼いた(念のためくり返すが、涙目だがまだ『泣い』てはいない)

かわいいことはわかっている。見たら負けることもだ。

いや、普段であれば負けることに抵抗はない。しかし今日の今に限っては、負けるわけにはいかないのである。

今日の場合、ここで折れるとあとが悲劇だ。第44話の再現だ。今日はもうなにか、そういうのはおなかいっぱいなんである。

そういうわけで名無星がくぽはこころを鬼にし、恋人から目を逸らしていた。

名無星カイトはそんなおとうとを睨み、視線を返すと張りついたままの明夜星がくぽも睨み、そしてなんだかぼやっとカウンタに懐いてこの一幕を観劇しているマスターたちを見た。

『たち』というか、甲斐が目に入った。

状況が今ひとつ呑みこみきれていない、ひとりだけ浮かべる『?』マークに含む意味合いが違う――

全員をひと渡り見て確かめ、名無星カイトはこっくり、頷いた。

「次回までに検討しておく」

「ぴゃ…っ」

「兄ぃいいいいいっ!」

「ちょっとあんたね……っ」

歓んだのは明夜星カイトだけで、おとうと連合は悲痛な声を上げた。しかして対するのは名無星カイトである。まるで怯みもしない。

要望に対し裁断を下した(解法は第55話で明かされた『キタナイオトナノ話法』に同じ)名無星カイトといえば、背中に明夜星がくぽを張りつけたままさっさと踵を返すと、材料の準備しか済んでいない作業台に戻った。まずは鍋に薄く湯を張り、そこにざっくざっくとココアパウダーを入れる。

文句は言っても動きを阻害することはなく素直についてきた明夜星がくぽは(張りついたままで邪魔であるのは、妨害する気でやっていることではない、突き抜けた美貌も無惨にぶぅうっと膨らませた頬を、だま潰しに集中する名無星カイトの頬に押しつけた。

「おい」

これで妨害する気は微塵もないわけだが、天然かつ自然にとても邪魔である。

だま潰しを止めることはないものの、さすがに低い声を上げた名無星カイトに、明夜星がくぽはむしろぐりぐりと頬を擦りつけた。さすがに手が止まる。

「おい…」

「だってこれ飲んだらまた兄さん、アレでさ…せっかく今、収めたとこだってのに。くり返しになるのなんか、目に見えてるでしょ。なんであんなこと、一日に二回も三回もやんないといけないのさ。一日一回だって多過ぎるっていうのに、あんたどれだけマゾなの?」

首を引き、あえかであってもなんとか距離を取ってぎろりと睨んだ名無星カイトに、明夜星がくぽもようやく顔を浮かせた。が、反省した様子はなく、むしろ聞く耳をもってくれたのをこれ幸いとばかり、べらべらべらとまくし立てる。

そこまでまくし立て、明夜星がくぽはふと、真顔となった。反論に開こうとした口をすんでのところで閉ざした名無星カイトと見合うと、腹に回していた手をすっと伸ばす。

擦りつけたのとは逆側の名無星カイトの頬を、ぶにりとつまんだ。

「おい」

「僕はあいつなんかより、断然、あんた側だけどね。それでもさっきのはどう考えても、あんたが悪いと思う」

「………」

なんの話かといって、明夜星がくぽが蒸し返したのは第57話である。空気を完全に凍りつかせた、乱暴にも過ぎる名無星カイトの発言だ。それこそ『せっかく今、収めたとこ』の最たるもの――

その間、明夜星がくぽを構うことが疎かになっていたことは確かだ。だから今さらであっても自分の意見も聞いておけと。

――明夜星がくぽが終わった話を蒸し返した理由とはおおまかにはそういうことだったが、さすがに構ってほしいだけが理由ではなかった。

どうしても確かめなければならないことがあればこそ、いやいやながらも蒸し返したのだ。

ならば明夜星がくぽはいったいなにを、そうまで確かめなければならないと思いつめたのか?

「でも、それよりも………僕はちょっと、あんたが心配になったんだけど。あのさ、あんたまさかいつも、『そう』いう扱いを受けてたんじゃないだろうね?」

黙って見つめる名無星カイトの揺らぐ湖面の瞳を、花色が奥深くまで探るように覗きこむ。

膿んで倦んだ傷を探す瞳だった。

咄嗟に問いの意味がわからず、名無星カイトはきょとんと、むしろひどく無邪気にそんな花色を見返し――

「…っっ!」

明夜星がくぽが言ったことの意味を、示される事柄をまず理解して、奈落に突き落とされた心地となったのは、今回最大の『被害者』とも言えた名無星がくぽ、名無星カイトのおとうとであった。

――とりあえず突っこむもん突っこんでおけば…

ただ兄とは『そう』いうものだと、名無星がくぽは思っていた。売り言葉に買い言葉で、おっとりさの欠片もない激しいものの言いをする。

それが兄であり、それだけのことだと。

だから明夜星がくぽが指摘したような懸念など、名無星がくぽは微塵も抱かなかった。

だから単純に、最愛の恋人までも貶めるような兄のものの言いに、駆動系が灼き切れるかと思うほど腹を立てた。

だから――

明夜星がくぽの指摘の、意味を理解したと同時に一気に、吐き気を催すほど名無星がくぽの腹は冷えた。

名無星がくぽにとって名無星カイトとは、兄とは、ひたすら『愛される』存在だ。

愛され、尊ばれるのが兄だ。

周囲にいるのは親衛隊かフリークかグルーピーか、とにかく敬愛を捧げる相手ばかりと認識していた。KAITOはもちろんだが、KAITO以外のものであっても。

『そう』されるのが兄だからだ。

触れる相手も同様だ。兄から声をかけているならともかく、兄を見初めて声をかけているのだから。

それが、まさか――

地面が抜けるような心地をしばらくぶりに味わうおとうとからわずかに遅れ、名無星カイトも明夜星がくぽの指摘を理解した。

理解して、顔をしかめる。揺らぐ湖面の瞳は揺らいでも、まっすぐ清明に花色を見返した。

「ばか言うな。俺だってしたことないけどな、されたこともないぞ。やさしいやつばっかりだった。好きにしていいって言っても」

なおさら大事にされるばかりだったと。

――だから申し訳ない心地がさらに募って、一度しか応じないのだ。『そう』までの想いを返してやれないから。

そういった意味で名無星カイトは律儀であったし、きまじめでもあった。

受けて、明夜星がくぽである。

それでもしばらく、奥底に隠され、沈められているかもしれないものを探っていたが、やがて肩から力を抜いた。頬をつまんでいた指が落ち、腹に回る。

名無星カイトの肩に顔を乗せ、明夜星がくぽはため息でもつくようにつぶやいた。

「じゃああんたが単に、口が悪いってことだ。発想がゲスなんだ」

――言い方である。言っていることはそうそう間違ってもいないわけであるが、言い方である。

大人としてもう少しこう、オブラート的なものにいろいろ包みこんだ表現というものが推奨されるはずだが、そういえばそもそもオブラートのメイン使用者とは子供ではなかっただろうか。ニガイ薬だの粉薬だのがまだうまく飲めない年頃の、幼い子供のための。

そう考えると、オブラートに包んだものの言いとは相手を子供扱いしているということと同義であり、むしろ失礼な態度ではないか(これは一側面を極大化して論じた挙句、偏向に陥る思考経路の好例である。実際的なオブラートの使用者とは、子供から大人、老人までと、ことに年齢制限もなく幅広いのだから)

これはもしかして少しは反論したほうがいいのだろうかとさすがに悩んだ名無星カイトへ、明夜星がくぽはころもこ毛玉ボール期のこいぬそのもののしぐさで擦りつき、懐いた。

ならいいよ。あんたがひどい思いしたっていうことじゃないなら…いやな思いさせられたっていうんじゃないなら。僕はそれでいい

言って、腹に回されていた明夜星がくぽの手にはくっと、力が入った。

ほんのわずかに考え、名無星カイトはまた、ココアを作り中の鍋に視線を戻す。

「………そうか」

結局それだけ応え、今度こそ、だま潰しに集中した。

――ところで、寸劇合間に一部始終を観察していたマスターたちである。ぼやっとしているだけのようにも見えた、明夜星甲斐と名無星出宵である。

寸劇に興じるふりで、ただマヌケ面を晒しているだけのようでいて、ことの初めからロイドたちの関係性やら相性やらパワーバランスやらやらやらをひたすら注意深く計っていたマスターたちである。

「………いかぁっスかね、うちのこ」

カウンタにべったりと懐きつつ、ここに至って放たれた出宵の問いに、甲斐はわずかに首を傾げた。が、あまり迷う間は置かず、さっくり答える。

要経過観察。――かな」

なにが?

そう思われたなら、第55話を参照されよ。これに関してこれ以上、言うべきことは特にない。