さて、保留となった問題もあれ、これであらかたが片付き、ようやく平穏が――
恋より遠く、愛に近い-第60話-
「ぁ、あの、が、くぽっ。ぇとっ……っ」
組んだままだった腕をきゅうきゅうと引き、明夜星カイトは恋人の注意を呼んだ。
いろいろあって気が散漫となっており、ついうっかり迂闊に注意を呼ばれてしまった名無星がくぽである。恋人をまともに見返してしまった男である。
「ょ、よそみ?めっ。………なの、なのでっ。ぇと、ぉ、れのこと、だけ?みて?て…???」
――これはつまり、『お話し合い』の成果なんである。コミュニケーションが不足しているとして、先に名無星カイトに強制された、その果てに成ったもの。
なにと詳しく解説することはしないが、成果であり、今回明夜星カイトは、兄のほうへ気を取られたどのつくどブラコン(『どブラコン』にさらに『ど』がつく。そう、大事なことは二回言うのである)な恋人に、いろじかけをもって兄離れを促そうと企んだ(色仕掛けではない。いろじかけである。この違いは案外、大きい。なにがといって、『色仕掛け』ではあざとさが不足する。つまり威力不足という)。
そもそも直前のあれこれで、すでに足元が覚束なくなっていた名無星がくぽである。これでトドメを刺され、一瞬、膝が砕けた。本気で。
なんとか崩れ落ちる寸前で踏ん張ったものの、生まれたての仔牛ほどの脚力でぷるぷるしている名無星がくぽを、明夜星カイトはドナドナとリビングのソファへ引っ張って行き、座った。並んで。いや、言いたいことが別にあるわけではないが、座った。並んで――
これから拷問の時間が始まるのだと、名無星がくぽにはわかっていた。つらく、惨たらしいにもほどがある拷問が、最愛の恋人によってもたらされるのである(名無星がくぽは類似の拷問を第20話で経験済みである)。
期待が昂じ過ぎて、求められずとも名無星がくぽは恋人から目が離せなくなった。
――という顛末を、名無星カイトは知らなかった。
今回、この顛末をもっとも知ったほうがよかった相手であるのだが、知らずに終わった。いい加減、ココアをつくることに集中していたからである。
背中に張りついているだけで基本、暇な明夜星がくぽといえば、一部始終をさらりと眺めた。
が、ある意味で非常に当然のことながら、それを名無星カイトへ伝えることはなかった。むしろさらに背中に張りつき、ココアでなければ自分に注意が向くよう謀る。
これを名無星がくぽが見ていれば、また必要もないのに兄にナイトが発生していると腹をもやつかせただろう。名無星カイトが恋人たちの顛末を片鱗でも知っていれば、おまえはどうしてそうも過保護なんだと笑っただろう。
そういうことだ、明夜星がくぽの言動は――
とはいえ少しやり過ぎたことは確かで、これはこれで多少の物議を醸した。明夜星甲斐、明夜星家のロイドきょうだいのマスターである。
名無星カイトにかかる疲労の度合いについては『要経過観察』、つまり『しばらく黙って様子見』という結論を下した甲斐だ。
その『黙って様子見』という結論に至った理由のひとつに、うちの子がくぽとの絡みが非常に関係していたりしたりしたので、本来的には黙っていたかった。
が、とてもではないが黙っておれなかった。
だから、明夜星がくぽは少し、やり過ぎたんである。
それで結局、口を出した。
まず初めの【がくぽ】分、もっとも苦い→違った、もっとも甘さ控えめのココアができたところで、それを味見用の小皿にひと掬いし、持ってきた明夜星カイトにだ。完全に頭痛を堪える姿勢で、額を押さえながら。
「ぇえと、あのね、カイトくん?きみちょっと、うちのがくぽを甘やかし過ぎですね。いくらなんでも甘やかしが過ぎます。もしかしてひとんちの子だからそういう、なんか言いにくい?」
「はあ?」
とりあえず味見皿を受け取ったものの、口をつけることなくそう言いだした甲斐へ、名無星カイトは思いきり胡乱を返した。
確かにおとうと相手には、明夜星がくぽは腕によりをかけて甘やかしている相手だと啖呵を切った名無星カイトである。
が、実はそうまで積極的に、自分から能動的に甘やかしているという認識はなかった。
明夜星がくぽの要望に応えるか、あるいはしてきたことを拒まず容れるかしかしていないのであって、つまり受動的だ。
『甘えさせ』てはいるが、そうまで『甘やかし』てはいないと(先に、第59話で明夜星がくぽも言っていた。したことを拒まないだけというのは、そのうちに入らないと)。
認識外であると、咄嗟に胡乱を返した名無星カイトが二の句を継ぐのを待たず、甲斐は未だその背に張りついたままのうちの子がくぽへ、素早く視線を移した。
「がくぽ、わかってるでしょう。今、おにぃちゃんだったら三回はカミナリを落としてた。そうでしょう?」
「…っ」
若干、声を厳しく問いかけた甲斐、マスターに、明夜星がくぽはくっとくちびるを引き結び、顔を逸らした。
それだけだ。反論が一語も上がらない。
さすがに『マスター』相手ということもあろうが、言われた通りということなのだろう。自覚がある。あるいは言われて自覚したか、どちらでもいいが――
あれだけおっとりとやさしい明夜星カイトであっても、さすがに嗜めずにはおれないほど度を越して『甘えた』と。
その甲斐と、うちの子カイト、うちの子カイトのおんぶおばけと化している明夜星がくぽとを見比べ、さらにはリビングのほう、今はソファに並んで座っている恋人同士のうち、明夜星カイトへ目をやり、また甲斐に戻して、出宵は首を傾げた。
「がっくんって、もとから甘えっ子ってイメージだけど………おにぃちゃんにもこうなんじゃないの?」
「違う。いや、違わないんですけど」
出宵の語尾に被せるほどの勢いで否定してから、甲斐は小さく息を吐いた。ガス抜きに近い。少し頭に血が上っているのを、下げるためだ。
意識して肩からも力を抜き、改めて顔を上げた甲斐は、『ボクうしろぐらいです』と白状しているも同じ態度でぷいと顔を背けているうちの子がくぽと、それを未だ負ったままの名無星カイトとを、困ったように見た。
「確かにがくぽもべたべたに甘えるし、うちのカイトもぎったぎたに甘やかしたがるけど…なんていうの?うちのおにぃちゃん、そういうとこはしっかりしてるから。たとえば火のそばとか、包丁使ってるときとか、こんなずっとびったりは許さないです、絶対。だめだよって言って聞かせてたし、がくぽもそういうのはちゃんと、『はい兄さん』って聞いてました」
「はぁあ………」
気の抜けたような声で、とりあえず相槌らしいものを打った出宵だ。なにしろ出宵がこの家で明夜星がくぽを見るとき、彼は常にこんなふうだった。
そしてうちの子カイトもだ、ごく当然と容れていた。多少、扱い兼ねるといった雰囲気を醸すことはあったがすぐに飲み下していたし、なにより――
同じことを聞いていた名無星カイトは、抱えこまれたままながら可能な範囲で首を巡らせ、明夜星がくぽの表情を確かめようとしていた。
あまえんぼうのわがまま王子として稚気全開に顔を逸らしている明夜星がくぽだが、甲斐が説明を重ねるうち、名無星カイトを抱きこむ腕に力が入ったからだ。縋る動きだ。
『わるい』とは思っている。『わるい』とわかってはいるが、だがしかし――
きつく縋りつき、抱きこむ明夜星がくぽの、わずかに窺える表情を眺め、名無星カイトはふむと考えた。
なるほど、問題はペットフェンスの仕様構造ではなかったのである。
よくあることであるが、しつける側の、しつける意志だ。意識の高さであり、強さだったのだ。
そう、ころもこ毛玉ボール期とはいえこいぬもいぬ、こいぬはいぬなのである。
かわいさに絆され、しつける意思を放棄するのがまず、間違いだった。
これは相手を背後霊と仮定したときにも同様だ。そもそも意思の弱いところにつけこんでくるのが霊の類であると、相場が決まっているのであるから。
もちろん、道理もわからない傍若無人期のこいぬがすぐ、しつけを聞くわけもない。背後霊も同様だ。そんな素直さがあれば、とうに成仏しているはずだからである。
そこで重要な鍵となるのが、しつける側の姿勢だ。何度でも同じことを言い聞かせる根気であり、辛抱強さであり――
ただし相手は本来いぬでも背後霊でもなく、明夜星がくぽであるのだが。
それでもおにぃちゃんはきちんと言って聞かせていたし(カミナリを落としていたそうである)、おとうとも言われるときちんと聞いていたという。
考察が済んだ名無星カイトは、自分の腹を締め上げる手に手を重ねた。
縋りついても、その名無星カイトとすら目を合わせようとしないあまえんぼうのわがまま王子だ。
――けれど今回、『縋りつく』ことはしてくれた。
顔を逸らす明夜星がくぽを不自由な姿勢で振り仰いだまま、名無星カイトは重ねた手をぽんぽんと、あやし叩いた。綻び微笑むくちびるが、開く。
「おまえ、言えば聞いたんだな?」
「は?なにそれ」
名無星カイトの問いに、明夜星がくぽは逸らしていた顔をぱっと戻した。不機嫌なもの言い同様で、まさに名無星カイトを敵と見定めたがごとき鋭い目で睨む。
「あんた僕のこと、どれだけばかだと思ってるの?そんなばかだと思ってるの?僕は賢いんだからね、言われたら聞くよ。当たりまえでしょう」
「ちょっと、がくぽ…」
完全に八つ当たりでしかないものの言いに、カウンタ向こうで甲斐が腰を浮かせた。
この主従はほんとうによく似ていると、横目に見た名無星カイトは思う。
たとえば出宵であれば、そこそここじれきるまで傍観しているか混ぜっ返すかしかしないのだが、甲斐にしろ明夜星カイトにしろ(名無星カイトから見れば)かなり早い段階で介入を試みる。
それは愛情だ。それも愛情だろうが――
「言えば聞くけど、言わないと聞かない。そうなんだな?」
甲斐が諌める言葉を継ぐより先に、名無星カイトは相変わらずのほの笑みでくり返した。
受けて、明夜星がくぽの表情がさらに歪む。
「は?だからなにそれ…」
「じゃあ俺はなにも言わないから」
明夜星がくぽの反発などいっさい聞かず、名無星カイトはきっぱり言い渡した。
浮かべる表情は変わらず、笑みだ。明夜星家のロイドきょうだいが得意とする、背後になにかを醸すものではなく、ひたすら清々しく、やわらかに、やさしい。
「……………………は?」
完全に虚を突かれた明夜星がくぽは、まさに鳩が豆鉄砲を食ったようの標本見本となれるような表情で、ずいぶん経ってからようやく、それだけこぼした。
ようやくこぼせて、それだけだった。
どこか恐慌を来したようにも見える明夜星がくぽへ、名無星カイトはあくまでも微笑みを向ける。やわらかにやさしく、厳然とした。
背後にはなにもない。背後に抱えるものや、そびえるもの、控えるものは、なにも。
背後ではない。
前面だ。
ただ厳然と、立ちそびえる意志がある。
「だからおまえがしたいように、したいことをしたらいい。俺はなにも言わないから」
「は………………」
こんなことが、以前にもあったと明夜星がくぽは思い出していた。忘れもしない、実際は今の今まで忘れていた、第25話である。
だからどこにそんな要素があったのかと、明夜星がくぽはよほど叫びたかった。
どこにそんな、そこまで強固な信頼を寄せてもらえるようなことがあったというのか。
自分がしたなにをもって、そんなことを考えつくというのか――
名無星カイトは『投げた』わけではない。逐一言わないとわからないなど、面倒だと。
ただ、信じていた。信頼がある。
明夜星がくぽは逐一言わなくとも、『わるい』ことを『わるい』と気づけるし、気づいた以上、『わるい』ことをし続けたりはしない、きっと自分で止めることができると。
揺らぎながらも厳然と譲らない湖面の瞳と、揺らぎに揺らいで揺らぐ花色は、しばらくひたすら見合い――
縋りついていた、腕が浮く。名無星カイトは追わない。重ねていた手は、なんの不自然さもなく離れた。
感触が、温度が、不自然さもなく、ただ自然に、未練も残さず離れる。離れていく。
それが明夜星がくぽの出した結論であるなら、ただ容れるだけだからだ。そういうことだからだ、名無星カイトの宣言とは。
強いのは意志だけでなく、言葉とともに覚悟がある。
「………っ」
揺らいでいた花色に亀裂が走り、苛烈な光を宿した。一度は浮いた腕が、再び名無星カイトの腹に戻る。縋らない。けれどきつく、抱きこむ。
ふんと鼻を鳴らし、明夜星がくぽは完全に拗ねた顔を名無星カイトの肩に乗せた。
「それ………これまでとなにが違うっていうの」
つけつけとした問いに、名無星カイトはやわらかく笑い、離した手を伸ばした。肩に懐く頭に乗せると、くしゃりと掻き撫ぜる。
「さあ?」
撫でる手はやさしくとも、容れる体はやわらかくとも、意志は固い。
ふんと、もう一度、明夜星がくぽは鼻を鳴らした。
「別にいいけどね。僕は賢いもの…僕は、僕を甘やかすことをあんたが忘れさえしなければ、あとはなんでもいいんだし」
これに、名無星カイトの手がわずかにぶれ、止まった。
どうしたと、肩に懐きつつも目を合わせてきた明夜星がくぽを、揺らぐ湖面の瞳が愕然と見返す。
「……………なるほど。おまえ、ほんとに賢いな……」
笑みも消え、唖然と放たれた言葉に、明夜星がくぽはきょとんとし――
一転、破顔した明夜星がくぽはまさにいぬのように、無邪気に名無星カイトに擦りつき、懐いた。
そしてこの、一幕を見届けた甲斐である。今度こそほんとうに肩から力を抜き、というより抜けて、はぁああという、内臓まで出そうなため息をこぼした。
「前言撤回………カイトくん、厳しい。うちのおにぃちゃんより厳しい。ずっと厳しい。がくぽくんがなんであんな、すごくしっかりした子に育ったか、わかった」
つぶやき、未だ手に持ったままだった味見皿にようやく口をつける。ずっと啜ってさらに顔をしかめた甲斐に(【がくぽ】用、もっとも苦い、もとい、甘さ控えめのココアである)、出宵がこくんと頷いた。
「良かったよ…だってボク、ひとんちの子だからって遠慮してなにも言えなくなるようなカイトとか、うちの子でこころ当たりないもん」