発端は本編第71話である。より厳密には第67話であるわけだが、とにかく発端は本編第71話だ。
恋より遠く、愛に近い-日記版
ニーナとニックの狭間で
少し振り返っておくならあのとき、名無星カイトは明夜星カイトを模倣、『まね』をしたつもりだった。
しかして後日になってそう聞いた明夜星がくぽがすぐ、迷いもせず断じたのである。
「ぜんぜん?あんたのほうがずっと、かわいかったよ」
――この感想を聞き、名無星カイトは咄嗟に携帯端末へ手を伸ばした。いいや違う。今の明夜星がくぽの、記念的な発言を録音しようとしたわけではない。
ラボに緊急通報を送ろうとしたのだ。明夜星がくぽが致命的な障害を負ったと、案じて。
ただしこれは未遂で終わった。間断を入れることなく明夜星がくぽが続けた理由によってである。
つまりだ。
「まあつまり、ギャップ萌え?みたいなものだよね。兄さんがかわいいのは確かなんだけど、言ったら兄さんはいつもかわいいから。驚きはない安定のかわいさってやつで、いわば評価が高止まりで殿堂入りしちゃってるじゃない。対して、あんたは違うでしょ。だからさ、同じことしても、兄さんよりずっとかわいいってなるの」
言っていることがわかるようでまったくさっぱりわからない明夜星がくぽの説明であったが、ために、名無星カイトはすんでのところでラボへの通報を思い止まった。
まともな理屈もない実兄崇拝こそ、明夜星がくぽを明夜星がくぽたらしめる最たる要因であり、それはいっさい損なわれていないことが理解できたからだ。
ところでこの場には名無星がくぽと明夜星カイトもいたわけであるが(それでのちにああいった騒動に発展するわけだが、ところで当話から読んだがために騒動の内実をご存知ないという方は、小ネタ集の2023年11月27日分を参照されたい)、案の定と言おうか、明夜星カイトは名無星カイトの咄嗟の行動に気がつかなかった。
もちろん、おとうとの説明を理解もできなかったが、とりあえずおとうとが名無星カイトをとてもかわいいと評価していることだけ理解し、とても満足した。
その傍らに立つ名無星がくぽといえば、こちらもこちらで案の定、兄の咄嗟の行動にも気がついていたし、その行動に走らせた思考にも思い及んでいた。そしてちょっと、絶望していた――
なぜといって、そうではないか?
想い人が自分のほうをこそ立ててくれたときにだ(少なくとも明夜星がくぽが理由を説明するまでは、『立ててくれた』と言いきっていい。理由を説明したあとは、まあ、口ごもりながらであれば、言えないこともないのではないか)、無邪気に歓ぶのでなく、半信半疑ながらもほわっと緩んでしまうのでもなく、全身の毛を逆立てるほどの危機感と焦燥に駆られながら携帯端末へ手を伸ばすわけである。相手のかつてない異常、不調を疑ってだ、緊急通報のために。
いくらなんでも兄が不憫だ。不幸馴れが過ぎる。チートと幸福度は等価となることはないし、比例もしないという生き見本になってしまっている。
――そんなこんなで、名無星がくぽはこのとき、いつもより兄のことが気にかかっていた。いつもと違って無意識域だけでなく、表層意識から。
で、結果である。
「『おれ、はではでにめだってかこいーがくぽ、みたいなあ』」
見たいみたーーーいと、全力でおねだりする明夜星カイトとまったく根競べすることなくあっさり負けた名無星カイトは、明夜星がくぽを相手ではなく名無星がくぽを相手に、再現してみせたのだ。その、件の、明夜星カイトをまねたと言うが、明夜星がくぽ曰く、もっとずっとかわいいという、例の、本編第71話の、あれを――
ギャップ萌えの、意味を理解した名無星がくぽである。
いや、『萌え』の部分は否定するが、まさか兄にこんな芸当ができるとはついぞ思ったことがなかった名無星がくぽは、その普段とのギャップぶりにこう、かなりこころ揺さぶられた。
まあ、名無星がくぽの兄はいい加減、できないことがないレベルランクのチートなので(※個人の感想である)、やる気になればきっとこういったことも容易いのだ。できるとついぞ思ったことがなくとも、そんなことは凡庸な手合いの月並みな発想であって、兄にとってはまるで大したこともなく、きっといつもの褪めきった目つきでもって『むしろどうして俺がこの程度、できないと思ったんだ、おまえは?』とかなんとか――
気持ちが兄に傾いていた分、名無星がくぽはいつもより表だって兄絶賛傾向だった。
いや、表だってといったところで、実際になにをしたといって、呆然としていただけなのだが。忙しかったのは思考だけだ。
それで、その、口にも出さない思考を、常にはにぶちんで、空気をまるで読まないKAITOがである、らしいKAITOの代表格である明夜星カイトがまた、こういうときに限っては読むわけだ。
それで結論――
びぇやわあああああと泣きながら駆けていった明夜星カイトを、名無星がくぽが慌てて追いかけていく。
そのふたりを眇めた目で見送りつつ、明夜星がくぽはやれやれと吐きだした。
「だからやめろって、僕は言ったでしょう…?あんたさ、兄さんがかわいいってより、結構、めんどくさがりだよね?粘られそうだなってなると、わりといつもあっさり折れるけどさ、だからそういう…」
言っていることは正しいかもしれないが、まさかあまえんぼうのわがまま王子からのお説教である。あまえんぼうのわがまま王子からの、まっとうにも過ぎるご指摘である。
これこそ絶望的な話であったが、明夜星がくぽはすぐ、口を噤んだ。飽きたわけではない。
名無星カイトが非常に遠慮がちに、自分の袖口をつまんで引いたからである。袖口をつまんで引く、名無星カイトの表情である。
「………………どうしたの」
ひと息分ほどのなにかを呑みこんでから、ことさらゆっくりと訊いた明夜星がくぽを、名無星カイトは項垂れ、途方に暮れた顔で上目に見た。
「うわきって………」
「うん?」
「……………」
「……………」
「………………………」
「………………………」
「…………………………………」
という具合に、言葉にもならないまま見つめ合うこと、数瞬である。
唐突に全身から力を抜き、明夜星がくぽは名無星カイトへ手を伸ばした。片手は腰に、片手は項垂れる顔の、顎にやって上向かせる。
「あんたはしてないよ。ちょっと考えたらずではあったけど。それだけでしょう?」
「………」
揺らぐ湖面の瞳を、花色の瞳はまるで臆することもなく覗きこむ。奥深く、むしろ根を張りたいかのように踏みこんで、笑う。
「あいつ…あんたのおとうとがどうかは知らないけど。それは兄さんが判断することで、僕の知ったことじゃないし。でも、そうだな」
そこまで言ってふと気がついた顔となり、明夜星がくぽは実際に踏みこむかのように名無星カイトへ顔を寄せた。ごく間近、触れ合わんばかりに近づき、つぶやく。
「どうしてもあんたが背負いたいって言うなら、僕はそれをこそ、赦さないけど…あんた、僕以外を背負う隙なんか、あると思うの?」