「どのみち無理だぞ。俺にはできん」
共用廊下から階下の道、そのうち明夜星きょうだいが仲良く手をつないで出てくるだろう瞬間を兄と並んで待ちながら、名無星がくぽはぼそりとこぼした。
恋より遠く、愛に近い-日記版
ゆっくり踏み出す足の、壊した壁の先
「ん?」
それは小ネタ集の2024年2月17日分から引き続いていたのだが、いかに名無星カイトが敏いといえ、さすがにここまでに間が空き過ぎた。
咄嗟に理解が及ばず、なんの話かときょとんとした顔を向けた兄を、がくぽはほとんど吐きそうなほどの覚悟を持って真直ぐに見返した。
「家のなかの…家庭内の『兄』は、家族の、……………おとうとのものだ。おとうとだけのものだ。共有する気はない」
閊えるのどを押し開き、閊えるのどを力づくに押し開くがための震える声で、けれどがくぽはきっぱりと言いきった。
油断するとほんとうに吐きそうだ。
ほとんど死に態を晒すおとうとをカイトはきょとんと、ほとんどぽかんとして眺め、しかし長いことではない。
少なくともおとうとが意識を飛ばすより前に、兄は口を開いた。
「この未熟者」
「……………なんとでも言え」
そう返し、ようやくがくぽは兄から顔を逸らした。階下の道へ、目を凝らす。急激に視力が落ちた気がする。やたら白く霞んで、遠くが見えにくい。いや、そもそも視野の範囲が狭い。これでは恋人が出てきたところで、判別できるかどうか――
今にも意識を飛ばしそうなおとうとを眺め、カイトは呆れようにこぼした。
「言うけどな。今のそれを明夜星カイトが聞いたら、浮気を疑われても文句は言えないぞ、おまえ」
「ぅわっ……っ?!ではないっ!!」
「じゃあ、明夜星カイトがいるところで言ってみろ」
「ぐっ……っ」
相応に自覚はあるのだ。思わずくちびるを噛んで黙りこんでしまったおとうとから、カイトはすっと顔を逸らした。
「だからおまえは未熟者だって言うんだ」
つぶやくようにこぼされた言葉に、その声音に、がくぽはむしろ、一度は俯けた顔を上げた。
――ゆっくりでいいんだよ、がくぽ。走っても目的地にはつくけど、歩いたってつくってことだも、それ。じゃあ、ゆっくりあせらないで歩いて、そのぶんいっぱい見て、聞いて、いっぱいいろんなこと感じたほうが、おトクでしょ?
どうしてか思い出したのは、はんなりと笑って告げた恋人の顔だ。確かに兄と恋人とは同じKAITO、同機種であるし、そこから面影を想起して、なにも問題はないが。
ひたすら見入るおとうとをちらりと視界の端に見て、カイトはまた、階下の道に目を戻した。
「ああ、ほら、出てきた…」
つぶやく、視線の先にいるのは手を繋いで歩く、仲睦まじい様子のきょうだいだ。ふたりは同時に振り返り、階上のふたり、名無星カイトと名無星がくぽへ満面の笑みで(遠目にもそうとわかるほどの満面の笑みで)手を振った。
振り返しながら堪えきれず、カイトのくちびるは綻ぶ。
名無星カイトの気難しいおとうと、名無星がくぽには最近、新しい『オトモダチ』ができた。
それで、こんなことを正面切って兄に伝えようと思いついたのは、きっとその、『オトモダチ』の影響だ。
なにがどうあれ、愛されることに衒いのない、自分が愛されるに値する存在であると、天然で確信している男――
手を振り手を振り、振り返り振り返りながらも前に向かって歩きだしたきょうだいへ手だけは振り返しつつ、カイトは階下を見つめるおとうとへ笑いかけた。
「たしかにおまえはまだまだ未熟者だし、ツメも甘いけどな、がくぽ。それを俺に正面切って言えるようになったっていう――………その成長に免じて、『おまえの兄』はいつだって、おまえだけに独占させてやるよ、がくぽ」