「ん………」
リビングの時計を見て、がくぽは軽く眉をひそめた。
長針短針が揃って差すのは、零時――夜も夜中、現代の暦においては、翌日に入った時間だ。
そろそろいいだろう。
War of Sleeping Beauty-3回戦-
思い切ると、がくぽは膝に広げていただけの雑誌をぱたんと畳んで、ラックに放りこんだ。態度は粗暴なのだが、出したものは出したところにきちんと戻している。
ひとつひとつを丁寧に拾い上げて見ていくと、実際は几帳面で丁寧な動作が多いがくぽだ。
現実にそんな分析に費やせる時間は存在しないので、全体をざくっと見て、『残念なちんぴらぶり』と結論される。
さらに本人が、その結論で一向に不満がない。ために、いつまで経っても全体の態度が改善されるに至らない。
リリィやグミなどは評して、『素敵悪循環』と呼んでいる。
「あれ、がくぽ~、寝る時間かい?おやすみ~、良い眠りを~aはははははははh」
「マスター……………」
同じくリビングには、マスターがいた。こちらは持ち帰りの仕事とにらめっこしていたが、がくぽが動いたことでわずかに集中が切れたらしい。
朗らかに笑うマスターに、がくぽは口を開きかけて中途半端に閉じた。珍しいことだ。
『マスター』相手であってもまったく容赦がないからこそ、酒の席において、マスターが正座に敬語の泣き上戸と化すのだ。
「カイトと仲良くな~、はははははははh」
がくぽに向けるマスターの笑顔は明るく、声も朗らかだ。
未だに目が、ぐるぐる回っているが。
「…………」
がくぽは眉をひそめたまま、視線だけで軽く天を仰いだ。
そうそう暗示に弱いような性質でもなし、ましてやリリィがやる程度の、古典的にも古典的過ぎるやり口だ。朝にやられて深夜のこの時間まで、未だにぐるぐるしているなど、どうかしている。
しかし暗示というものは、本人の心理様態に大きく左右されるものだ。心が弱っていれば弱っているだけ、より強力に効く。
つまり、あの程度の暗示がこうまで効いているマスターは、がくぽとカイトの関係にそこまで――
「まあなんだ。この状況は割と、俺に都合がいいな!」
「ん?なんだい、がくぽ~?」
きっぱりと吐き出したがくぽは、首を傾げるマスターへにっこり笑顔を向けた。
「いいや?そなたも適度なところで切りにして、とっとと寝ろよ。夜更かしは体に毒だぞ」
思いやり溢れることを言って、さっさとリビングから出る。
――実のところ、そこまでは確かに目がぐるぐるしていたマスターだった。
しかしがくぽの満面の笑みと思いやり溢れる言葉という、強烈にも強烈過ぎるコンボ攻撃に、その後すぐに正気に返った。普段のがくぽの行状が知れる。
が、それはそれでまた、別の話だ。
知る由もないがくぽは、はなうたでもうたいそうな上機嫌で階段を降り、寝室がある一階へと行った。
最近作られたこの家は、リビングやダイニング、その他の家族の公共設備が二階に集まり、個人部屋が一階に集まっているという造りだ。ちなみにマスターは、さらにその上の三階に個室を持っている。
いくらどうでも間に一階挟んでは、『響く音』もたかが知れている。なにより一階と二階では、同じ『音』でも響き方が違う。
おそらく昔ながらの二階個部屋方式であれば、間に挟んでいる挟んでいないに関わらず、もう少しマスターの反応が違ったはずだが――
自分の家に、微妙な感じで裏切られているマスターだ。反って、救われているとも言うが。
ご機嫌なままのがくぽは足取りを緩ませることもなく廊下を歩き、ひと部屋の前で立ち止まった。
さすがに表情を引き締めて、まずは廊下の様子を窺う。
「……………」
人気なし。
がくぽはさらに表情を締めると、扉越しに部屋の中の様子を窺う。
――しんと静まり返っている。
「……………よし」
あえかな声でつぶやくと、がくぽはドアノブに手を掛けた。音も立てずにそっと開き、素早く中に入りこむ。
――いつもなら、ここで動きが止まることはない。
しかし今日のがくぽは、扉を閉めたところでぴたりと止まった。
「……………?」
常にひそめられている眉が、さらに厳しくひそめられる。くちびるが歪んで、がくぽはしばしじっと、ベッドに見入った。
「……………どういうことだ」
つぶやくと、がくぽはつかつかとベッドの傍に行く。
そんなことをしなくても結果はわかっていたが、布団をがばりと捲り上げた。
空っぽだった。
「………………っどこに行ったっ、あのうすらぼんやりが…………っ!!」
暗闇にすらはっきりわかるほどに寝た形跡がない、綺麗なままのシーツを眺め、がくぽはぎしぎしと奥歯を軋らせた。
そう。
がくぽがまっすぐ向かって入ったのは、自分の部屋ではない。カイトの部屋だ。
今日も今日とて、壮絶に物言いたげなカイトを無視し、先に寝に行かせたがくぽだ。自分はというと、カイトが寝入った頃を見計らって、こうしていつものように侵入した。
が、どういうわけか、ベッドはもぬけの殻だった。
今まで、こんなことはない。
「どこだ…………どこに行ったっ……………くそ、日に日に余計な知恵をつけていく…………っ」
軋る歯の隙間から罵倒をこぼし、がくぽは苛々と腕を組んだ。落ち着かせるようにも煽り立てるようにも取れるしぐさで、上げた片手の指でくちびるをタップしながら考えこむ。
しかし、長くはない。
「こうしていても、埒が明かんな。虱潰しに行くしかないか…………ったく、手間を掛けさせるっ」
結論すると、がくぽはカイトの部屋から出た。
――補記しておくと、そうまでしてカイトと同衾しなければいけない理由はない。カイトも求めていないし、マスターにお願いされたわけでもない。
個別で寝てお互いに寝不足などという、ロイドにあるまじきことをうっかりやったりしたが、義務も責務も、そこにはなにもない。
それでもがくぽはカイトを探して、三階建ての家中を隈なく回り――
「…………………っの、うすらぼんやり………………っっが…………っっ!!」
がくぽの膝は力を失って、がっくりと床についた。のみならず手もついて、全身で項垂れる。
家の中、眠る妹の部屋すらも含めてすべてを隈なく探したものの、カイトは見つけられなかった。
もしかして家出したのかと、要らない危惧を抱きながらがくぽが最後に入ったのが、自分の部屋だ。なぜいの一番に、ここを心当たりとしないのか。そこの心理様態は、置いておくとして。
がくぽの部屋も、基本は洋室だ。他の家族と違うのは、部屋の一角にベッドではなく、琉球畳を置いていることだ。
そこに、使いもしなくても毎晩、布団を敷いておくのだが――
カイトはその中に潜りこんで、すいよすいよと熟睡中だった。
ただ寝ているだけではない。
おそらくは、がくぽとの共寝を想定していたのだろう。シングルのためにそうそう広くもない布団の端のほうで、体を丸めている。
そのうえで、がくぽの羽織を安心くまさん代わりに、きゅうっと抱きしめていた。
――推測するに、『におい』が足らなかったのだ。
がくぽは布団を敷くものの、毎晩カイトのベッドに潜りこんで寝ている。使用された頻度は少なく、だというのにこまめに日に干して、シーツも定期的に洗いに出している。
がくぽの部屋にあるがくぽのものだが、もっともにおいが染みつくはずの布団は、もっともがくぽのにおいが薄いものだった。
意趣返しかなにかを思ってがくぽの部屋に行き、その布団に先に潜りこんだカイトだが、すぐにそのことに気がついたのだろう。
そしてご不満に思い、がくぽの部屋を持ち主に無断で漁ると、ある意味でもっともにおいのする羽織を引きずりだして、ご本人が登場するまでの代替品とした。
「こ、の………………っ、すら、ぼんやりは……………っ」
その場に倒れ伏したいのを懸命に堪えて布団まで這って行ったがくぽは、確認した中の様子に、ほとんど死に態でうずくまった。
頭を抱えると、懊悩著しく吐き出す。
「俺を、萌え殺したいのか…………っ!!」
きゅううっと羽織を抱きしめ、そこに半ば顔を埋めて眠るカイトは、ひどくしあわせそうな満たされた表情だった。
がくぽはしばしそのまま、うずくまって動かなかった。