バスルームへと続くサニタリールームの扉を開いた瞬間だった。

「ゃあっ、だめ…………っ、なかにお湯入る…………!!」

「あらら?」

バスルームから響いてきた声に、未那は大きな瞳をさらに大きく見張った。

にゅーよーくにゅーよーく-前編-

マスターである兄といっしょにお出かけしたものと思っていた、兄のロイド、カイトの声だ。どうやら入浴中だったらしい。

「ゃだも、がくぽ…………っあっつぃい…………!」

「ほやや、そういえば………」

マスターである兄にも、実の妹のごとく可愛がっている自分にも聞かせない種類の甘い声で啼くカイトを気にもせず、未那はマイペースに、ぽむ、と手を打った。

洗面台の下の戸棚を開き、ロイド用シャンプーの詰め替えパックを取り出す。

そのまま躊躇いもせずにバスルームへ向かうと、扉に手を掛けた。

無造作に開く。

「カイトくーん」

「ひぁあ?!!」

呼びかけに応えたのは、悲鳴だった。

未那は気にせず、上半身を突っこむ。

それなりの年頃である彼女だが、『兄』の裸体に遠慮するような繊細さの持ち合わせがなかった。

周囲から常々言われることだが、乙女成分が少々欠けているのが、未那なのだ。

「カイトくん、昨日…………あらら?」

上半身を突っこみ、手に持ったシャンプーの詰め替えパックを掲げたところで、未那は再び、大きな瞳を見張った。

「どうした、未那」

笑いさえ含んだ声に訊かれ、未那はにっこりと笑った。

「がくぽくんもいっしょだったですか~」

平均的な家庭用浴槽よりは多少広めとはいえ、大浴場というほどではない。

その大きくもない浴槽に、カイトとともに、お隣のおにぃさんのロイド、がくぽがいっしょに入っていた。

カイトを後ろから抱えるような形でぴったりと密着し、見るからにゴキゲンな様子だ。

「み、未那ちゃ……………んゃぁっ」

なにか言おうとしたカイトが、口元を押さえてそっぽを向く。

熱に弱いロイド用に湯温はぬるめのはずだが、その白い肌は真っ赤に染まり上がっていた。

至極愉しげな顔でカイトの顎を撫でながら、がくぽが未那を見る。

「それで、どうした、未那」

尊大に訊かれ、しかし未那は気にすることもなく頷いた。

「はいです~。カイトくん、昨日、シャンプーが終わっちゃったって言ってたですよね。詰め替え用、置いておきますから、入れ替えしてくださいです」

にこにこと無邪気に笑って詰め替えパックを振る未那に、相変わらず口元を押さえているカイトが、そっぽを向いたまま、こくこくと激しく頷く。

「わ、わか、わかった……………っから、も、がくぽっ!!」

悲鳴を上げるカイトに構うことなく、未那はがくぽにも詰め替えパックを振った。

「がくぽくんもよろしくです~」

「応。使われてやろう」

他人の家の風呂に入っているのだという殊勝さの欠片もなく、がくぽはどこまでも尊大に頷く。

口元を押さえたまま体を折り曲げ、湯の中に沈みこみそうになっているカイトの顎をくすぐって、愉しそうに笑った。

「ではでは、ごゆっくりです~」

詰め替えパックをタイルの上に置き、未那は無邪気にばいばいと手を振って扉を閉める。閉める寸前、がくぽが手を振り返してくれたのが、わずかに見えた。

「はわわ、ゴキゲンでしたね、がくぽくん~」

首を傾げながらも、未那もゴキゲンにつぶやく。

カイト以外には基本的に、愛想を振り撒かないがくぽだ。

俺にもあの態度なんだけどと、マスターである隣のおにぃさんが、兄に愚痴っているのをよく聞く。

未那には、不機嫌に相手をされたところでへこむような繊細さの持ち合わせはない。

とは言っても、ゴキゲンであるなら、それはそれでうれしいものだ。

なにしろがくぽくんは、兄と同じくらい大好きなカイトくんの、大好きなひとだし。

「んにゅにゅいいこと思いついちゃったです~」

ここに来た本来の目的であった新しいバスタオルを取り出すと、未那は弾む足取りでサニタリールームを出た。

「も、なんでカギ掛けとかないんだよ?!!っひ、やぁあんっ!」

カイトの微妙過ぎる絶叫が背中を追いかけてきたが、自分の思いつきに夢中になった未那の耳には、入らなかった。

「んにゅふふふふぅ~ww」

もふもふのタオルを胸に抱え、未那はにまにまと締まりもなく笑う。

ステップでも踏んでいるような軽い足取りで階段を上って二階へと行き、自分の部屋の扉に手を掛けた。

「めぇ~いこさぁああ~んっ」

表情と同じくらい、締まりのない声を上げながら扉を開く。

「あn」

「却下よ!」

会話の隙もなく、速攻で『却下』された。

「…」

扉を開いた形で一瞬凝固し、それから未那は、きょときょとと首を傾げながら部屋の中へと入った。

自分の部屋も自分のベッドもありながら、未那の部屋の未那のベッドを占領して本を読んでいる赤毛の女性は、兄から譲り受けた未那のロイド、メイコだ。

タイトなミニスカート姿で俯せで横になっているために、お尻の丸みがきれいに出ていて色っぽい。

短いスカートだというのも気にしないで足先を持ち上げてぶらぶらしているから、見えるような気がする。なにがといって、ナニが。

そうやって堂々と持ち主の居場所を奪っているメイコは、入って来た『マスター』に目もくれなかった。

「えっと、メ」

「却下と言ったら却下よ」

「…」

まるきり会話の余地がない。

未那は大きな瞳をしぱしぱと瞬かせた。

タオルを胸に抱えたまま、ベッドの枕元に行って、床に正座する。

「あ」

「だめよ。なんだか知らないけど、どうせ絶対ロクなことじゃないんだから、却下!!」

「のねメイコさん、いっしょにお風呂に入ってください!」

「人の話を聞けっ、この駄マスター!!!」

「いきゃだだだだだだっ!!!」

跳ね起きたメイコに、固めた拳で両のこめかみをぐりぐりと揉まれ、未那は悲鳴を上げた。

しかし一般的な反応は長くは続かない。

「いたい…………っメイコさ、…………はあはあはあ」

「息を荒げるな、この被虐趣味がっ!!」

「ぃいいいいいいたぃいいいいいいっっぁはあはあはあ!」

罵りながら、メイコはさらに力を入れてこめかみを揉む。

未那は頬を赤く染め、痛みのためでなく――ある意味痛みのせいだが――瞳を潤ませた。怪しい感じに息が荒い。

「ぁあメイコさ、はあはあはあはあ!」

「ほんっとしょうがないわね、あんたって子は!!」

「んきゃんっ」

ある程度の時間だけ特殊性癖に付き合ってやると、メイコは無造作に未那を放り出した。

床に手をついた未那は、すっかり骨抜きのクラゲ状態だ。

「はあ、メイコさん…………良き痛み…………ww」

興奮のために赤く染まった顔とは、また違った意味で赤いこめかみを撫で、未那はうっとりと余韻に浸る。

「で、お風呂がどうしたって言うの?」

却下却下叫んでも最後には訊いてくれるメイコに、未那は打って変わって無邪気な笑みを浮かべた。

乙女心の持ち合わせもないくせに、胸の前で手を組んだ乙女ポーズでメイコを見上げる。

「いっしょに入ってください!」

「なんでよ?!」

「いっしょに入りたいからです!!」

良くも悪くも、未那は欲望に正直だった。

メイコに叩き返されても、まったくめげることも臆することもなく、堂々と主張する。

未那は乙女ポーズのまま、ベッドの上から睥睨するメイコをうっとりと見上げた。

「メイコさんといっしょにお風呂…………お背中の流しっことか、お湯のかけっことか」

こめかみをゲンコツで揉まれてはあはあするが、言っていることは他愛ない。

というか、年を考えると少し足らな過ぎて、逆に怖い。

ここのところのギャップに未だに悩みながら、メイコは眉間を揉んだ。

「なんでいきなりそんなこと、思いついたのよ」

現状、真っ昼間だ。

朝風呂だの昼風呂だのの習慣はなく、風呂と言えば夜寝る前に入るのがいつもの未那だ。

今の時間にいきなり、風呂ふろ言い出す根拠がわからない。

そのメイコに、未那は無邪気に首を傾げた。

「えっと今、カイトくんががくぽくんとお風呂に入ってて」

「真っ昼間だっつってんでしょ?!なにやってんのよ、あんにゃろうども!!」

「なんだかすっごくたのしそうだったから」

口汚く罵るメイコを気にもせず、未那は見たままを口にする。

無邪気に口にされた内容に、メイコはきりきりと眉をひそめた。

「マスター、あんたね。まさかと思うけど、ふたりが入ってるとこ見たのナマで実際に?」

「見ましたです。がくぽくんがカイトくんを後ろから抱っこだっこで」

「カギくらい掛けろやだぼどもがっっっ!!あたしのマスターにナニ見せてくれてんの?!!目が汚れる!!」

叫び、メイコは手を伸ばすと、実際に未那の瞼をこしこしと擦った。

痛くはないがくすぐったさに、未那は笑う。

「野郎ども、風呂掃除決定よ隅から隅まで、ぴっかぴかに磨き上げさせてやる。女子供も入るところで、ナニしてくれてんのよ、まったく!」

「え、カイトくんもがくぽくんもそんなに汚れてないから」

「二人で入ってる時点で汚れるわよ、もれなく確実にどっろどろに濁るわよ!!」

「えええ?」

きょとんとする未那から手を離し、メイコは憎々しげにバスルーム方面を睨みつけた。

「まったく、どこでもそこでも盛るんだから………。どうせならあっちの家でやんなさいよねこっちにはあたしのマスターがいるのよ教育に悪いわ!!」

がくぽの家でやれ、とぶつくさ文句を垂れるメイコに、未那は首を傾げた。

そんな年頃の女『子供』がいるかというと、非常に微妙かつ繊細な話になってくるのだが、こういうときのメイコはさっぱり気にしない。

上目使いになって、未那はメイコを窺った。

「それでメイコさん、お風呂……」

「却下よ」

「いっしょに入りたいです」

「だから人の話を聞け、駄マスター!!」

きっと睨みつけるメイコを、未那は上目使いのまま、じっと見つめた。

「…」

「…」

「…」

「…」

じーっと、じーっと、無言のままに睨みあうこと、数分。

「………………いいわよ、わかったわよ…………」

根負けしたのは、いつものようにメイコだった。

『マスター』相手だとか云々以前に、メイコは未那に弱かった。未那がまだ『マスター』ではなく、『マスターの妹』であったときから、逆らえなかったのだ。

一応は自分の考えを主張するが、大体最後は折れる。

とはいえ。

「でも、ひとつ条件があるわよ」

ぱっと表情を輝かせた未那に、立てた人差し指を突きつける。

折れっぱなしではないのも、メイコだった。