細く骨ばった手が優雅にスプーンを操り、皿からスープを掬う。

弟の皿から掬い上げられたスープは、そのまま、母親のスープ皿に落とされ、混ぜ込まれた。

ひと匙、ふた匙。

スプーンが放り出されて、今度はフォークとナイフ。

同じく、弟の皿から肉が取り分けられ、母の皿に。

ひと欠け、ふた欠け――

そうやって少しずつ、ほんの少しずつ、弟の分の食事を母の分に混ぜ込んで。

残った弟の食事は、ゴミ箱へと捨てられた。

それでは、弟が食べるものがない。

双子として生まれた妹とともに、ほんの数日前に五歳の誕生日を迎えたばかりの幼い弟――確かに今は体調を崩していて、食事が出来るかどうか、わからないとしても。

どうしてそんなことをするのか、カイトはただ、不思議だった。

ひたすらに、不可解で――

だから覗いていた扉口から、パントリーへと入った。

解法なき命題解放されざる明罪

にこにこと笑うカイトが、一口大に切ったソーセージを突き刺したフォークを、がくぽの口元へと運ぶ。

「はい、あーん」

「……あ」

朝食時――いつもと同じ、食事風景だ。

カイトに盗まれてからというもの、がくぽはフォークやスプーンを自分で持って食事をした記憶が、ほとんどない。

カイトはどんなに仕事が忙しかろうとも、食事時だけは必ず帰ってきて、がくぽに給餌していくからだ。

なにをそれほど思い入れがあるのかと、呆れもするが――そんな、給餌に時間を取るより、「恋人」としての時間を取るほうが大事だろうと、くさくさすることもある。

しかし同時に、思う――「飼い主」である以上、どんなに忙しかろうとも、遊ぶ時間は取らなくても「餌」の時間だけは、厳守しなければならない。

どこか人とずれた感性の持ち主である、カイトだ。

そんなふうに自分の義務を定めていたとしても、不思議はない。

「次はどれ食べたいおいもそれとも、サラダ?」

「……………」

にこにことうれしそうに笑うカイトに甘く訊かれ、がくぽは複雑な表情で眉をひそめた。

貴族によってまちまちだが、カイト・ヴォーク・ア・ロイド子爵家の場合、少なくとも朝食だけは、家族全員で摂る。

家族全員といっても、当主であるカイト、その恋人であるがくぽ、それにカイトの二人の妹、ルカとミクの四人だけだ。

こじんまりとしたもので――

「がくぽ食べたいもの、なぁに?」

「あのな」

まったくいつもと変わらない、愛らしいの極みを体現した笑顔のカイトに重ねて訊かれ、がくぽはため息をついた。

いつもと変わらない、ということがこの場合、あまりに異常だ。

天気がいい日の朝食には好んで使う、庭の片隅に造られた四阿。

そこにいるのは、前述した通りに家族四人だけだ。給仕役の使用人は、いない。

そもそもカイト子爵家には、多くの使用人がいることは確かだったが、すべてがすべて、影かなにかのように形を潜め、できる限り主人一家の前に姿を見せずに、仕事を遂行するようにしている風情があった。

これはこれでその家ごとの仕様だから、がくぽも深くは気にしない。

そういうわけで、四阿にはカイトとがくぽが並んで座り、その向かいに妹たちが座っているだけだった。

そしてその、向かいに座る妹たちが今日の場合、問題――大問題、だった。

カイトにそっくりで、おっとりし過ぎているために、昼間でも夢の中を彷徨っているかのような美少女のミクと、女王を彷彿とさせるような威厳と苛烈さに満ちた美女であるルカの姉妹は、性格がこれだけ違っても、非常に仲がいい。

たまに首を傾げ、カイトの顔を窺いたくなるほどに、仲がいい。

ミクは兄のことも大好きで、兄が恋人にしてやることをなんでも、真似したがる。その真似の相手に選ぶのが、ルカなのだ。

カイトががくぽに「あーん」してあげるなら、ミクもルカに「あーん」する。

カイトががくぽに押し倒されて体を皿代わりにされると、ミクは自ら服を脱ぎ、皿にしてくれとルカに強請る。

――そもそもは、清楚で可憐な美少女のミクだ。その情操教育に著しく問題が出ることがわかったので、がくぽも最近は、朝食時だけは大人しく振る舞うように心がけている。

そしてそういうミクの、行き過ぎた「まねっこ」をいつも鷹揚に、むしろ嬉々として受け入れているのが、ルカだ。

だからきっと、好意はあるとして。

「………なにか言うべきことはないか、カイト子爵」

「ふぇ?」

ため息とともに力なく訊いたがくぽに、カイトはきょとんとした顔を晒した。絶望的なことに、本気で問いの意味がわかっていない。

がくぽとカイトの向かいに座る、ルカとミク――今日、ミクはルカの膝に抱かれていた。カイトはがくぽの膝に乗っていないが、だからといってルカの膝に乗るのを嫌がるミクではない。

それでも、いつもはカイトを真似してルカの口に食べ物を運んでいるのだが、今日は反対だった。

ルカが、ミクの口に食べ物を運んでいる。

それも道理で、ミクは手が使えなかった。

彼女が今日着ている服は、リボンとフリルに彩られた愛らしいブラウスだ。一見、いつも通り。

しかしその袖は、両腕が縫い止められ、出口がないようにされた――いわば、拘束服だった。

囚人や病人用の無骨さはないが、間違いない――貴族の中には、褒められた趣味ではないものも多い。そういったものが嗜好して、己の「人形」に着せるための、貴族用の拘束服。

p class="t_i">見た目は愛らしく美しく作られているが、本来の役割を果たし、着たものの自由は完全に奪う。

そしてちらりと見えたスカートの下の足を覆うのも、見た目こそ愛らしく作られているが、やはり拘束服だった。

これでは歩けないから、おそらくはルカが抱いて運んで来たか、使用人に運ばせたか――

そうやってもミクはいつもの通りに、茫洋とした夢の中を彷徨っている顔で微笑み、ルカが運ぶ食事を素直に口に入れている。

いくらなんでも、朝からなんの趣向かと思う。

それも、清楚可憐で幼気なミクに。

「………………」

「………………」

きょとんとしていたカイトは、がくぽの視線を追って、ようやく妹たちを見た。

視線に気がついたルカがふっと眉を上げ、悪びれることも見せびらかすこともなく、淡々と肩を竦める。

「お仕置き中なのよ。この子ったら、庭師の男を誘って、咥えこもうとしたの」

「っ?!」

あまりにあっさりと吐き出された言葉だが、その内容の衝撃度は計り知れない。

ミクはまるで、俗世から隔離して育った修道女のような趣のある少女だ。その瞳は夢を見て、俗汚を知らない。

その彼女が、よりによって庭師を?

身を硬くしたがくぽに対し、カイトのほうは表情もなく、庭を見渡した。

ひとつの庭木を見て、頷く。

「ああ、そういう季節………」

「季節?」

つぶやいたカイトに、がくぽは訝しく訊き返す。しかしカイトはがくぽには答えず、ミクを抱くルカを見た。

「そういえば、この間も夜にうたってたけど………まだだめなの、その子?」

「だめみたいね」

カイトの声に、がくぽに向けるような甘さも熱もない。ルカもしかりだ。

当主である兄に対し、態度も声も冷徹極まりない――もともと彼女は、ミク以外には表情も態度もやわらげることがなかった。兄に対しても、兄の恋人であるがくぽに対してもだ。

同性の恋人を溺愛する兄に呆れているというより、元からミクにしか興味がないらしい。

「――というより、なんだか最近になって、悪化した気がするわ。一度は確かに、落ち着いたはずなのに…」

「ふぅん」

カイトの相槌には、気がない。ルカのほうも相談したいわけではないようで、気の抜けた兄の返事に怒りを向けるでもない。

がくぽは困惑しながら、きょうだいの会話を聞いていた。

詳しいことはわからないが、ミクはなにかしらの問題を抱えていて、――結局、今日になって拘束服に辿り着いた、と。

がくぽにとっては異常だが、彼らきょうだいには常態で、そして一応、ミクのため?

「まあ、いいよ」

小さくため息をついて身を引き、カイトは肩を竦めた。

「使用人を替えるってなったら、たとえ庭師ひとりでも面倒だし。しばらくそれで過ごして、あとはまあ、できるだけ隔離しておけば。そのうち――」

カイトが冷たくさえ聞こえる結論を吐く途中で、それまでルカの胸にもたれていたミクが、ころんと頭を落とした。

大好きな兄と、その隣に座って複雑な表情を晒すがくぽを、見る。

いつでも夢見る瞳が軽く見張られ、歪み、濁り色の笑みを浮かべた。

「おとうさま」

発されたのは、鳥のさえずりにも似た、可憐な声。

がくぽは瞳を見張り、わずかに仰け反った――どう考えても、ミクの瞳はがくぽを見つめている。

見つめているが、もちろんがくぽには、こんな年の娘の覚えはない。

「おとうさま、今日はなんのおうたをうたいましょう?」

「み……」

困惑するがくぽに構わず、ミクは濁り色の笑みを浮かべて、さえずる。

その瞳が引きつり、華奢な体は拘束されながらも懸命に、ルカへと擦り寄った。

がくぽは唐突に気がついた。ミクの表情を歪めるもの。兆している感情。濁りの正体。

恐怖だ。

「ミクはおとうさまの金糸雀――なんでもうたいましょう。どんなうたでも、どんな声でも、おとうさまが望まれるまま、」

「るぅううかっっ!!」

甘く引きつり、歪んで裂かれる可憐な声を遮ったのは、カイトの怒声だった。

凍りついていたがくぽは、反射でカイトを見る――これまでカイトが、ここまで怒りに染まった声を上げたのを聞いたことはない。

どちらかといえば、感情が壊れているとしか思えないほどに、ひたすらになんでも笑顔で済ませてしまうほうだ。

声と同様に、カイトの表情は滅多にないほどの凄絶な怒りに引き歪んで、妹たちを睨み据えていた。

そうやっても、愛らしいと思う。

思うが――

「それの目も塞いでおけ、ルカ場合によっては食事も与えなくていいから、口も塞げ。お母様の命日が終わるまで、決してそれの拘束を解くな!!」

「カイト」

毛を逆立てて叫ぶ内容は、あまりに酷薄だ。

妹が思うほどには愛情がないように振る舞う兄だが、それでもそこまでではなかったはずなのに。

言葉を継げないがくぽに構わず、カイトは妹たちを凄絶な怒りとともに睨み据える。

ミクの言葉に固まってがくぽを見つめていたルカは、ゆるゆると瞳を伏せた。

落ちたまま笑うミクの頭を自分の胸へと埋めて視界を塞ぎ、小さくため息をつく。

「………そうするわ」

つぶやきながら、ミクの耳を自分の胸と手で塞いだ。

「………………どうしてこの子が最近、また悪化したのか、不思議だったのだけど」

そこまで言って、うっそりとした視線だけを兄に向けた。

「………………あのひとは、知ってるの?」

「あっは!」

問いに、カイトは笑っただけだ。場違いに、明るく。

「そうね」

納得するものがあったのか、ルカはこっくりと頷いた。

次の瞬間には元の表情を取り戻し、女王然として胸を張って、カイトを睥睨する。

「相変わらず病気だわ、あなた」

「それがなに?」

非難するでもない、感想としての言葉に、カイトは悪びれもせずに笑う。

先までの怒りをさらっと消して椅子に座り直すと、フォークを取った。ざっくりとチーズを刺すと、いつもどおり、甘く蕩ける笑顔でがくぽに向き直る。

「はい、がくぽ。あーん」

「……………………カイト、んぐっ」

口を開けば、当然そこに食べ物が突っ込まれる。

問う隙もなく、がくぽの口にはチーズが押し込まれた。

仕方なく咀嚼するがくぽに、カイトはとろりと蕩けて笑う。

「ごはんはちゃんと食べてね、がくぽ」

「カイト、ミク殿は」

咀嚼しつつ言葉を挟んだがくぽに、カイトは相変わらず蕩けた笑顔のままだった。ざくりと、ポテトをフォークに刺す。

「大丈夫だよ。いつものことだから。お母様の命日が終われば、落ち着く。たぶんね」

「………………」

どう言葉を継いでいいかわからずに複雑な表情を晒すがくぽに、カイトは笑って、フォークに刺したポテトを自分の口に放り込んだ。

軽く咀嚼して、ふいに身を乗り出し、がくぽの首に腕を回す。

躊躇いもなく口づけると、自分が噛み砕いたポテトをがくぽの口に流し込んだ。

反射的にごくりと咽喉を鳴らして飲みこむ、そのポテトは甘い――塩とスパイスの中に、カイトの唾液が持つ甘さが、染みこんでいる。

甘さが舌に乗った瞬間、がくぽは我を忘れた。

カイトを引き剥がそうと上がっていた手が、逆にカイトの体を押さえつけ、膝へと招き寄せる。

ポテトがなくなっても夢中になって唾液を啜るがくぽに、カイトも大人しく応えた。

ややしてくちびるが離れたころには、カイトのシャツは半ば解かれて肌が晒されている。

がくぽはそのまま、カイトの胸へとくちびるを辿らせた。

息を弾ませてがくぽの髪を梳きつつ、カイトは笑った。

「使用人はね。めーちゃんに怒られるし面倒だけど、いくらでも替えがいる――でも、がくぽはたったひとり。絶対に、替えが利かない」

夢中になって肌を味わうがくぽの耳には届かない、つぶやき。

カイトは手を伸ばし、皿から直接にフルーツを取ると肌を滑らせ、がくぽの口に押し込んだ。

「だから、ごはんはちゃんと食べてね、がくぽ?」

***

新しい皿に、替わって取り除いたわずかな母のおかずと、自分の皿から取り分けたおかずを載せ、弟の分が新たに完成した。

意味がわからない、行為。

「なにしてるの、めーちゃん?」

パントリーに入って訊いたカイトに、彼女は答えなかった。

ただ微笑んで、そうでなくても減った彼女の皿から、肉を一切れつまんだ。

「あーんしなさい、カイト」

「……………………………あ」

躊躇ったものの、言われるままに素直に開いたカイトの口に、肉が落とし込まれた。

複雑な表情で咀嚼するカイトを、彼女はやさしい瞳で見つめる。

「おいしい?」

「……………………ん。…………びみょー」

どうしようかと迷いながら、結局カイトは素直に答えた。

「いつもと、味、ちがう…………」

戸惑って、ぼそりと付け足された理由に、彼女はひどく楽しげに笑った。

笑って、カイトの分の食事を、ゴミ箱に捨てた。

母親が原因不明の病を得て亡くなったのは、その半年ほど後のことだった。