浴室の床の、固く冷たいのを遮るための浴室マットだ。歩くに邪魔でない程度に感触はやわらかく、ひとところに体重を掛けるとわずかに沈む。
これまでそれをあまり意識したこともなかったカイトだ。ただそういうものと言われ、そういうものだとただ、思うこともなく思ってきた――
モスカーレット・マスカレード-後編-
「ぁっ、あ……っ、ぁあっ、あっ………っ」
浴槽に縋って膝立ちとなったカイトの背後から伸しかかる兄が、その秘所に埋めたものを抜き差しするたび、カイトは自分の膝が浴室マットに沈んだり浮いたりすることを感じた。
だからなにという話ではあるが、がくぽがカイトに貪りつく激しさがそれでもわかる。
確かに少しの力をかければ沈む浴室マットだが、『少し』で沈む深さはやはり、『少し』だ。
対して、今だ。兄が腰を打ちつけるたび、カイトは自分の膝が抉るほどに浴室マットに埋まっているように感じる。実際はそうまでしたら痛んで仕様がないだろうが、しかしそう思うほど、背後から伸しかかるがくぽは強い。
いや、強いことは強いのだが、それだけではない。
ただ力づくにされているだけなら、カイトも痛みを痛みと捉えるだけで終えることができた。それはかなしいことで、苦しく、つらいことだが、話としては単純だ。痛みは痛みでしかないという。
万事において器用なカイトの兄は、無我夢中でおとうとに耽溺しているような今の状況であってすら、器用さを失っていなかった。
いや、これをただ『器用』とだけ評しては、きっと薄情だ。兄の過ぎて溢れても枯れることはない深い愛情の賜物と――
「んっ、ふぁっ、あ……っ、ぁ、にぃさ、ま、だめっ……っ」
引くと見せて引き切らず、兄のものがカイトのうちをこつこつと小刻みに突き上げる。どこを突き上げられているものだかカイトにはよくわからないのだが、少なくとも確かなことがある。
そこを突き上げられると、カイトの背筋から頭へ、びりびりと電流様のものが走るということだ。びりびりと痺れて、なにも考えられなくなる。ただそうやって、カイトを攻めたてる兄のことのほかには。
狭いうえにきつく締め上げるカイトのうちにあって、しかも捻じこむ際にはいつも以上に張り詰めていたがくぽだ。男声であってもロイドであって受け入れるに易い体であり、さらには相応に馴らされたカイトであってすら、今日の兄を呑みこむのには苦労させられた。
あまりにぎちぎちであったので、これでは今日は兄も動くに動けまいと――
考えたカイトが甘かった。
いつものことではある。だいたいそうだ。
確かに初め、がくぽは身じろぎすらできないようだった。
ただし初めだけだ。カイトのうちはただ狭く、きつく締め上げるだけでなく、さらに奥へと誘うように、あるいはたとえ最愛の兄とはいえ異物は異物と追い出そうとするように、じっと耐えるがくぽに複雑に絡み、うねり、蠢く。
兄はその、カイトのうちの動きに逆らわず、合わせた。追いだそうとするようなときには大人に腰を引き、奥へと誘うようなときには引いた腰を押しこんだ。
とても動けまいと思ったのに、だから動いてしまったのだ。それも、ただ無為と合わせて行き来するだけではない。カイトの弱いところを的確に突き、こすり、引っかけた。
なんて器用な兄と。
――きっと、そう評するだけで終わっては、薄情だ。
薄情だが、カイトにはそうとしか言えない。思えない。
なにより今まさに兄から突き上げられ、追いこまれ、果ての極みに達そうとしている身であれば、なおのこと。
そう、果ての極みに達そうとしている身だ。
達そうと、今にも達して果てようと。
果てたいというのに!
「んっ、んんん゛っ、ぁっ、にぃさまっ、っっ」
――視界が瞬くような心地がして、ああこれは限界だとカイトが思う。
それで、次の瞬間にはきっと果てるだろうと思ったその、『次の瞬間』だ。兄は巧妙にポイントをずらし、諸共にカイトの限界もずらす。
あるいはもう直接的にカイトの性器を掴み、今にも果てようとしたその根元をきつく押さえ、止める――
そうやって果てたいのに果てられないまま、ひたすら腹のうちを突かれ、掻き混ぜられ、こね上げられること、どれほどだろう。
「ゃっ、も、むり…っ、むり、です、にぃさ……っ、こゎれちゃ……っ、カイト、こゎれてしまぃま……っ」
何度めとも知れず、またも果てるのを妨害され、行き場を失くした極みの感覚が体に押し戻される。
押し戻されても、カイトの体は快楽に漬けこまれたままだ。もはや戻れる隙もなく、どころか新たに溢れた快楽とともにまたも体から押し上げられて、感覚はひたすら強くつよく強く、――
背筋を駆けあがり頭を灼く電流の、なんというのだろう、灼き加減と言おうか、場所と言おうか、とにかく意味が変わってきた。
万事鈍いと言われるKAITO――カイトでも、『変わった』とわかるほどに。
挙句、『変わった』と気がつき、ならばどう変わり、このままであればどうなるのかというところに思いを致した途端、その感覚はさらにひどく、性悪に強くなった。
初めてではないからだ。
これは経験がある――どうなるのか、どれほどに強い快楽が与えられるものか、カイトは身をもって知っている。
がくぽはどうにも好んでカイトをこの状態に追いこみたがるのだ。自らの欲が募ってというより、溺愛するおとうとであればこそ至上の快楽を与えてやりたいという、過ぎ越した情愛ゆえに。
それでも普段は、あまりに強い感覚に怯えるカイトの願いを聞き、なんとかぎりぎり、手前で止めてくれるのだが。
「大丈夫だ、カイト…壊れやせぬ。否、兄がそなたを壊すと思うか?この兄が、そなたを壊すようなことをすると………なあ、カイト?まさかであろう?」
「ぅっ、ふぅうっ、ぁあっ」
耳朶を含むように吹きこんだ兄の、その言葉にしろ声音にしろ、怯えるおとうとをからかう意図がまるで感じられなかった。むしろ溺愛を注ぐおとうとに、自分の懸ける愛情の深さ強さを疑われ、心外も極まるとでも言うような。
むしろ、疑われるようであるならもっともっと情愛を注ぎ、懸けてやらねばと決意を新たとするような――
「ひぅっ……っっ!」
ぞくぞくぞくと、これまでになく強い感覚が背筋を走り抜け、駆け上がっていくのに、カイトは咄嗟に歯を食いしばった。きりりと奥歯が鳴るほどにきつく食いしばり、けれどきっと無駄だろうともわかっていた。
そうでなくとも兄によって周到に追いこまれ、追い上げられていたところだ。だというのに『もっともっと』注がれるだなどと考えてしまった。今でも限界を超えていると思うのに、『もっともっと』――
「…め、です、にぃさ……っ、こわれます、カイト…っにぃさまのこと、好きすぎて、こわれっ……っ」
「っっ」
どこか悲鳴にも似たカイトの訴えは、言いきれず中途で切れた。その、切れた直後、あるいはほとんど同時に、背後のがくぽが低く呻く。膝立ちといっても、実際は支えてもらってようやくそうであったカイトの、腰を掴んでいたがくぽの手にも束の間、痛いほどの力が入った。
なにより、カイトの腹に突き入れられていたものだ。
「んっ、ぁあっ、あーーーーー………っ」
腹のうち、奥へと向かって噴き出すものの、その噴き出す感触と、腹に溜まっていく感触――ひと際張り詰めた兄のものが、カイトの腹のうちで暴れながら、堪えきれない欲を吐きだす。
もっともほしいところからは若干、手前ではあったが、そもそも十分、十二分に追いこまれていたカイトだ。釣られて極みへと押し上げられ、そして今度こそ妨害が入ることもなく――
「ひ……っ、ぁあっ、ふぁ………っ」
もはや妨害が入らなかったところで、溜めこみ過ぎたものは自ら出口を失った。ひと息に吐きだしてすっきり終わりとはならず、それこそ兄が狙った通りの結果というものだ。
勃起したカイトのものからはろくに出したいものが出ず、あとを引きながらとろとろだらだらとこぼれる。
そう、あとを引きながら、だ。とろとろだらだらとじれったく精液がこぼれゆく間ずっと、カイトの全身を快楽が走り、灼いて、爛れ落としていく。
「ぅくぅう……っ」
長引く余韻に、カイトの瞳から滂沱と涙が溢れた。こちらのほうがずっと勢いがいいほどだ。
そんなことを考えながら耐えるカイトの耳朶に、薄情にも先に落ち着きを取り戻した兄がまた、くちびるを寄せてくる。
すべての感覚が鋭敏となり、いつも以上に大きくびくりと震えたカイトにも構わず、がくぽはため息のように吹きこんだ。
「そなたな…そなた………カイト、そなたな…!気持ち悦過ぎて壊れるというなら兄にも加減してやれるものを、なんだ………なんなのだ………兄が好き過ぎて壊れるというのは。むしろ兄のほうがこわされたわ!」
吹きこまれたのは、なにやらひどく手前勝手な嘆きだ。
けれどそれでカイトにも得心がいった。普段と比べ、兄がずいぶん微妙な、中途半端なところで急に達したように感じていたのだが、それで正しかったのだと。
兄は不本意に達した。急激になにか、予期せぬ刺激を受けたかして――いったいどんな刺激をどう受け、急激に盛り上がったものかは不明なわけだが
浴槽に凭れるように頭を乗せ、カイトは億劫な目を背後へ向けた。
とはいえあえかに目線を投げた程度だ。初め、兄の顔が視界に入ることはなかった。
しかしおとうとが振り向いたと知るや、過保護な兄は即座に顔をずらし、目を合わせてくれる。
目を合わせ、――立ち昇る湯気があっても清明な花色と見合い、カイトはなに思うこともなく、微笑んでいた。手酷い絶頂を味わわされた億劫さも軽快し、浴槽に凭れていた体が自然、起き上がる。
「おかえりなさいませ、にぃさま」
「………」
おっとりと咲き開くくちびるからこぼれた言葉に、がくぽはただ、瞠目して返した。
『おかえり』とは、とうの昔に交わしたはずの挨拶で、今といえばそれから一戦交えたあとであり――
「………敵わんな、カイト。仮にも自ら乞うてなった『兄』であるからには、こういうことはまったく言いたくないが……しかしそなたには敵わぬ、カイト」
「はい?」
カイトは振り返るだけでなく、片手を伸ばしてがくぽの首に掛けていた。がくぽはその手をよすがに、最愛にして相愛のおとうとを抱きよせると膝に乗せる。
わずかに目線の上となったおとうとを目を細めて見つめ、――その視線が気まずくずれた。
「にぃさま?」
兄の言っていることが理解できないだけなら日常で、今さら取り沙汰することもない。しかし視線がずらされるのは別だ。普段、いくら見ても見足らないのだと言って、頼んだところでろくに目を離してくれない兄が――
わずかな不安をにじませ、首に掛けていた手にあえかな力をこめたカイトへ、がくぽが視線を戻すことはなかった。
いや、一瞬、ちらとは見た。ちらと見て、やはり気まずさが勝ったとばかり、明後日なほうを眺める。
それでぼそぼそとこぼした。
「今日、な…今日の、出先で、な………日にちが日にちゆえ致し方ないことではあるのだが、――とにかく行く先行く先で、な………仲睦まじい連れ合い同士を何組もなんくみも見て、なあ………!否、仲睦まじいことは実に結構、まったく問題はないわけだが……………問題などなにもない。がっ……………っ」
そこまで言って、がくぽはくっと一度、奥歯を食いしばった。眉をひそめ、瞼すら落とし、激情をなんとかやり過ごそうという間を置く。
きょとんとしながら兄を見ていたカイトだが、なんとなく予感があり、腹にわずかな力を入れた。
それとほぼ同時だ。
「俺は今日、そなたを伴えずひとりであるというに!」
万感をこめてといった調子で、がくぽは吐きこぼした。カイトを抱いていた腕にも束の間、痛いほどの力が入る。
その腕の力の調子を見ながら、カイトは小さく首を傾げた。
「………おしごとでしたから?」
慎重に返したカイトに、がくぽはようやくきっと、顔を戻した。抱く腕にも力をこめ、逃がすまいと抱えこみながら切々と訴える。
「重々に承知だ。わかっておる。わかってはおるが、なあ………!彼らに悪気がないことも、別にわざわざ俺に見せつけているわけではないことも、十全に理解しておる。しておるが、なあ……っ!!」
――つまり、わかっていることと、納得できることとは別であると。
そういう話だろうとまとめながら、カイトは未だ、ぶつくさとこぼしている兄へ凭れかかった。凭れて目を閉じ、ゆっくりと瞼を上げる。
上目に見つめ、おっとりと微笑んだ。
「にぃさま…」
「ん?」
強請る声の調子に、兄はほとんど反射という動きでカイトへ顔を戻す。
見つめ合う花色に、自分が映っている。陶然と笑い、最愛の兄の腕のなかにいる自分が。
カイトはさらに笑い、最愛にして相愛の兄へすりりと擦りついた。
「寂しかったのは、にぃさまだけではありませんよ?でもカイトは駄々をこねたりしないで、大人ににぃさまのお帰りをお待ちしました。ええ、にぃさま………カイト、とってもいいこにしていたんですよ?」
最後の言葉はがくぽのくちびるの際、端を掠るかどうかというキスとともにつぶやく。
つぶやいて顔を離し、ことさら上目遣いで見つめたカイトを、兄は凝然と見返した。
凝然と見返しながら、もぞつくカイトの腰を撫でる。
「んんっ………っ」
びくりと揺れて、けれど離れるのではなく首に縋る腕に力をこめたカイトへ、がくぽのくちびるが綻ぶ。ようやくいつもの頼もしい兄の顔となって、揺らぐ湖面の瞳を潤ませるおとうとを覗きこんだ。
同時に肌を辿る指が、先の残滓に濡れ蠢くカイトの秘所につぷりと入る。
「ぁ……っ」
期待に、カイトの瞳はさらにゆらゆらと、煽られる湖面ままに激しく揺らぐ。
花色の瞳を細めてそんな様子をたのしみ、兄はそっと、おとうとのこめかみにくちびるを当てた。
「ならば、褒美をやらねばな?そなたの寂しかった分が埋まるよう、溢れて忘れるほどにたっぷりと――兄の愛を、カイト」