こんここんと浴室の扉がノックされ、洗い場にいたカイトはびくりと顔を上げた。上げるとともに顔が向かうのは、ノックされた扉だ。

モスカーレット・マスカレード-前編-

浴室の扉に映る影、湯気と曇りガラスとの相乗効果でさらにぼやけるシルエットを確かめ、だとしても決して間違いようのない相手を認めたカイトの、揺らぐ湖面の瞳がぱっと見張られる。

「ぁ、にぃ…」

「すまんな、カイト。もう出るかそれとも今しばらくかかりそうか」

ノックの相手を察して声を上げかけたカイトの、その声に被るように兄、がくぽも声を上げた。

カイトの上げた声は反射に近い、いわば吐息のような通りの悪い声だったが、もとより呼びかけるつもりで上げた兄の声は違う。分厚いガラス越しにも明朗とよく通って、きれいに聞き取れた。

聞き取れたが、しかしだ。

「あの」

「いや、いい、カイト」

――いつもは、おっとりのんびりとしたおとうとの言動に耐え、よくよく気長に付き合ってくれる兄だ。

それが、先もそうだったが、また、カイトの反応を待つことなく性急に言葉を被せた。問いかけながら、カイトの答えを待とうとしない。

いつにない反応に戸惑い、揺らぐ瞳をさらに揺らがせて扉を見つめるカイトに、シルエットが揺らいだ。そうでなくとも湯気と曇りガラスとで見えにくかったものが、さらに揺らいで形をおぼろとする。

扉から離れたからだ。

離れて、空いた距離だけ、シルエットはぼやけ、兄が遠のいていく。

「にぃさっ」

咄嗟にバスチェアから腰を浮かせたカイトだが、その手は扉にかかったところで止まった。

「どちらにしても同じだ。俺も入るゆえ………出るところだったなら悪いが、今しばらく兄に付き合ってくれ、カイト」

「え」

――離れたことで先よりくぐもり、かつ、言うように着ているものを脱いでいく合間の声だ。聞こえは悪い。

悪いが、やはりがくぽにはおとうとへ伝えようという意思があり、きっとカイトは兄の言葉をきちんと聞き取れたと。

きちんと聞き取れたと、思う。

が。

「え…」

言葉が聞き取れることと、意味が理解できることは別だ。いや、言葉が聞き取れて意味が理解できたとしてもだ、『聞き取って理解した内容』の処理を思考が容れるかどうかは別と言おうか。

とにかく、浴室の扉に手をかけた状態でカイトは固まった。

それも長いことではなかった。すぐに復活したからではない。扉が開いたからだ。

普段はおっとりのんびりしたカイトに合わせてくれるが、実際はその倍々程度の速さで動くことが常態である兄だ。

今日の彼が性急なのは声やものの言いだけでなく、動きもだった。だいたい、言い終わるとほとんど同時程度に脱衣も終え、再び浴室へと向かって足を踏み出していたのだ。

それで、開いた。ためらいもなく、迷うこともなく。

展開の速さに瞳を見開くしかできないカイトの、その見開かれた揺らぐ湖面の瞳とまず合い、花色がふわりと綻ぶ。いや、綻ぶのは瞳だけではなく、くちびるに、表情の全体までもがやわらかに蕩け崩れた。

綻ぶ、紅を塗らずとも朱に濡れるくちびるが開く。

「ただいま帰った、カイト」

言いながらがくぽは手を伸ばし、『お出迎え』してくれたカイトの腰に回した。万事おっとりしたおとうとがうっかり迂闊なことにならないよう支えつつ、もう一歩踏み出して浴室へと押し入る。

もう片手で扉を閉めると、あと一歩、踏みこんだ。

「おかえりなさいませ、にぃさま……」

そこまでしたところで、カイトはようやくそう返せた。習慣で、ほとんど思考もいらない手順まま、綻ぶ兄の顔へ顔を寄せる。

頬に頬を当て、わずかにずらし、ぎりぎり当たらないくちびるの端に、くちびるを掠らせる。

『挨拶』と認識する一連を無事しおおせたカイトは、そこでようやくほんとうにがくぽが帰って来たことを実感した。

がくぽ、最愛にして相愛たる――

「お会いしとうございました……にぃさまがお帰りになるのを、カイト、一日千秋の思いでお待ちしておりました………」

「ん゛っ……っ」

素直に思う丈を吐きだしたカイトに、抱き寄せた側、がくぽの体がびくりと跳ね、強張った。挙句、応えるのがおかしなのど声だ。

きょとんとして兄の肩に預けた顔を上げたカイトを、がくぽは先とは違う、ぎこちない笑みで迎えた。

「にぃさま?」

なにかおかしなことを言ったか、したかしただろうかと眉をひそめたカイトから、兄はちらりと視線を逸らした。

「ああ、いや………うむ誰に教わったものの言いかと、思って、な………?」

「だれ……です…か?」

兄がなにを問うているのかがわからず、カイトはさらに首を傾げた。

ものの言いを誰に教わったかというが、カイトのしゃべり方や言葉選びの手本なら、今さら問われるまでもない。兄もよく知っているはずだ。

マスター以外にないと。

兄と同じボーカロイドとはいえ、カイト――ロイド草創期につくられた旧型に属するKAITOは、<マスター>がことに好きだ。

カイトは兄をこそ至上として慕っているが、当然のようにそれはそれのこれはこれとして、基本、良いところも悪いところもまず、マスターに倣う。

――マスターに倣いはするが、しかしKAITOだ。スペックの低さを草創期らしい、今となっては『乱暴な』手段でカバーし、カバーをカバーした結果、物難いプログラムでありながらひどく突飛な思考形態を持つようになった。

倣ったつもりで、おおいに外すことはままある。

今回もそれだろうかとカイトが思い至ったところで、兄の体から妙な強張りが抜けた。いや、全体に強張りが抜けはしたが、――

「ぁ、の…にぃさ……」

「わかってはおるのだがな。まったく敵わん。思うつぼもいいところだ」

「あ…」

強張っていたときも、がくぽはおとうとを抱えこむ腕を緩めようとはしなかった。なにかの衝撃を飲み下し、強張りが抜けてからもだ。抱える腕は緩むことなく、どころか強くなる。

なんの気もないふうを装って腰を押され、抵抗を思いつく余地もなくぐっと突きだす形になったそこへ、同じく寄せられた兄の下腹が当たる。

より正確に言うなら、剥き出しの性器同士が。

最愛にして相愛の相手と、素肌同士で触れ合っているのだ。未だ抱き合うだけでも、カイトも相応に反応し始めていた。

しかし当てられた兄のものの反応は、相応どころではない。明らかに、あからさまに――

「にぃさ、んっ、んんんっ」

なにがあってこんなに臨戦態勢なのだと、問いかけてカイトはびくりと震えた。

先には腰を押したがくぽの手はそのまま肌を滑り、ためらう様子もなくカイトの双丘を撫でる。かちかちのとは言わないが、やわらかいわけでもない肉を撫で、掴んで揉みしだき、割り開いて奥へと進んでいく。

馴れたこととはいえ、それにしても動きに迷いがない。

「ぁ、あ……っ、にぃさま、はや………っんくっ」

性急な動きに堪えを思いつく間もなく、カイトはかん高い声で啼きながら兄へ縋りついた。その間にもがくぽの指は進んでいき、とうとう双丘の狭間、期待と慄きにひくつく秘所に辿りつく。

「ぁ……っ」

ただ表に触れるだけとでも言うように、指はまず、辺縁をくるりと辿った。くるくるりと辿った指は、たとえば正しく回したネジとネジ穴のように、つぷりとごく自然にカイトの内へと入りこむ。

もとより抵抗が薄いのがロイドの体ではあるが、それにしてもまるでカイトから誘いこんだというほどに巧みな兄の侵入りこみようだった。

「にぃさ、ん…っ」

びくりと震えて背筋を仰け反らせたカイトを、がくぽは覆い被さるように追って来た。いや、実際、がくぽはカイトへ覆い被さっていた。

追って来た顔は距離を保つどころか、詰めて、ゼロ距離に――

喰われるようなキスだった。過ぎる快楽を逃すため、あえかに開くカイトのくちびるをひと口に覆い尽くし、てろりと舐め上げて、吸いつく。

舌が伸び、閉じられずに震えるカイトのくちびるの狭間をさらに開くように、押し入った。

「んんんんん……っ、ん……………っっ」

兄がカイトよりよほどに巧みであるのはいつものことだが、今日はかてて加えて性急だった。いつもはカイトの反応を見ながらぎりぎりのところで引き絞っている感のある兄が、――

そういえばと、ふとカイトは思い至った。

それを言うなら、今日の兄は初めから性急だった。そもそもカイトが上がるのを待てず、浴室に押しこんで来たくらいだ。

「んん、んふ、ふぁ………」

「カイト」

「ぁ…」

貪るような口づけの合間にカイトを呼ぶ声が、突き上げる欲を懸命に抑えて低く這い、同時に堪えきれない欲がこぼれてしわがれる。

最中であっても、よほどきわまでいかないとこうまではならないがくぽだ。今のような、触れはじめからこうまでなることなど、そう滅多にない。

それで、やはりとカイトは納得した。

今日のにぃさまはずいぶんと餓えていらっしゃると。

寵愛を注ぐおとうとを貪りたくて、餓えて、余裕がまるでない――

「ぁ……っ、っっ!」

思った瞬間、カイトの背筋をひと際な感覚が走り抜けていった。

まずいと思っても、もう遅い。

そうでなくとも性急な、容赦のない愛撫によって追いこまれていた感覚がとうとう処理限界を超え、カイトの視界はちかちかと瞬く間もなく、刹那に白く弾け、落ちた。

とはいえカイトの意識が飛んだのは、言うなら束の間だ。すぐ、戻った。

いや、すぐとはいえ、やはり体は崩れた。そうでなくともぎりぎりのところで立っていたものを、膝が折れて腰が落ちる。

「っと…」

くったりとして、まさに『人形』と化したおとうとを、しかしすんでのところでがくぽが支えた。咄嗟に抱え直して落ちる勢いを削ぎつつ、ゆっくりと浴室の床に下ろす。

カイトの意識が戻ったのは、この、床に下ろされたあたりだ。尻に、固く冷たい浴室の――いや、床の固く冷たいのを遮るために敷かれた、浴室マットのほんわりとした感触が当たったあたり。

けぶる瞳がさらにけぶりながら開き、茫洋と景色を映す――

「カイト」

「にぃさま」

映した景色の初めに、まず、覗きこむ兄がいた。ごく間近の大写しに、過ぎて愛おしくうつくしい男の顔だ。

茫洋とけぶっていたカイトの表情が綻び、無邪気な喜色を宿して体が起きる。同時に伸びた手が、がくぽの首にかかった。

「甘やかしのおとうとめ」

がくぽは苦笑し、回る腕に招かれるまま抗うことなくカイトの身へ伏せた。綻ぶくちびるではなく、その下、無防備に晒される首筋に吸いつく。

「ぁ、あっああっ…」

肌がちりつくほど吸いついてから離れたがくぽは、同じところに撫でるように舌を這わせた。喰らいつく前の下準備にも似た執拗な舐め回しに、よく仕込まれたカイトの体はびくびくと震えながら勝手に足を開く。

開いたとはいっても緩やかな隙間だが、『歓迎』の意思は十二分に読み取れる。

穏やかにして鷹揚なおとうとの、堪える気力を片端から力いっぱい薙ぎ払っていくしぐさに、がくぽは一度、目を閉じた。

苦笑は苦く、にがく、苦く、欲に呑まれて爛れ消える。

閉じた目を開くと、がくぽはしどけなく座るおとうとへやわらかに笑みかけた。

「………ほんにそなたは、兄への甘やかしが過ぎる、カイト」