重なるくちびるが、押し開かれる。ぬるりとぬめつく舌が侵入ってきて、怯え逃げるカイトの舌を容赦なく絡め取り、吸い上げた。かりりと立てられる牙に、背筋が粟立つ。互いの口から唾液が溢れ、組み敷かれたカイトの唾液は顎を伝いただ下に、上に伸し掛かるがくぽの唾液は、カイトの口の中に――
My Dear Incubus
いつもなら、カイトのほうから親しげにがくぽに近づいて来る。
喧嘩っ早い問題児として鳴らすがくぽは一般生徒にとって近寄り難く、逆説的なモーセの如くに道が開くのが常だ。カイトはその開いた道をてってこてーと呑気にやって来て、肩を叩き腕に組みつき、まるで普通に無邪気に――
とにかく、カイトは逃げないのだ。がくぽに、正面から向かってくる。
好意を――否。
敵意を、持たずに。
「あ」
「あ?」
だがその日、カイトは逃げた。
がくぽとばったり顔を合わせたところで驚愕の一音を上げ、爆発するように頬からうなじから染め上げるや、くるりと背を向け――
がくぽの疑問の一音は、走り去る背に間抜けに投げられた。
がくぽが遅かったわけではない。カイトの逃亡が早かったのだ。
そう。逃げた。カイトが。がくぽから。背を向け、走って。
「……あ?」
がくぽに認識できたのは、それだけだった。
「君って、子は、さあ!!」
ぜえはあぜえはあと全身で息をしながら、草地に手をついて座りこむカイトが叫ぶ。
「ひとを追っかけ回した挙句、二階から飛び降りるとか!追いかけるだけならともかく、飛び降りるとか!ふっつーに走って追いつけるだろ、君の足なら!俺より速いよね、君?!なのに二階から飛び降りとか!必死かっ!!」
「必死だとも!!」
カイトは全身で息をしながらも常になくきつく、抜き身の刃の如くにぎらりと光る目でがくぽを睨みながら叫ぶ。
が、今日のがくぽはそれでしっぽを巻いたりしない。むしろ負けじと叫び返す。
言っているが、カイトの足も決して遅くはないのだ。
ゆえになかなか追いつけないがくぽも焦って、無茶な『ショートカット』をする。
もちろんがくぽとしては、そこまで無謀をやらかした気はない。己の身体能力や立地など、きちんと勝算を見越したうえでの実行だ。現に、かすり傷ひとつ負わなかった。
が、カイトの肝は大いに冷えた。
今、座りこんで全身的な息切れに苦しむのも、どちらかというより冷えた肝、抜かれた度肝によるもので、実際、座りこむというより、正確には『腰が抜けてへたりこんだ』――
場所が人気のない、特別教室棟だったから辛うじて騒ぎになっていないが、ろくでもないにもほどがある。
「そもそも、おまえがいきなり逃げるのが悪い。逃げれば追う。全力で」
狂おしく吐き出したがくぽに、カイトはぱちりと瞳を瞬かせた。ぱちぱちぱちと瞬いてがくぽを見つめてから、多少やわらいだ顔で、呆れたようにこぼす。
「逃げたら追うとか、犬か君は」
「犬だ。おまえの」
殊更に低く、ゆっくりと返し、がくぽはぺたりと座りこむカイトの前に膝をついた。頤を掴んで、正面から対する。
「で?逃げた理由はなんだ。俺はおまえには忠犬でいてやっているだろうが。なぜ逃げた。急に、俺から!」
「あ。それ訊く……」
激しい運動のせいで上気していたカイトだが、悲痛さを含むがくぽの問いに根本に引き戻され、結果――
羞恥に染まる相手の色香に、がくぽは無意識に咽喉を鳴らした。
頤を掴む指の意味が、今にも変わりそうで震える。
強く掴まれて固定され、顔を逸らせないカイトは視線だけを懸命に逃がしながら、珍しくもおどおどとくちびるを開く。
「さっき、の、時間……急に自習になって、ね?で、……ヒマだし、寝ちゃって。で、夢、みて……そ、れが、その……がくぽと、すんごい、べろちゅーする、ゆめ、で……ね?いくらなんでも、この短時間だと、さすがに、かお、……っ」
羞恥に染まるカイトは、もじもじと膝を擦り合わせる。
それは同性と濃厚なキスを交わす夢を見たことへの、嫌悪感から来る反応ではない。決して、忌避する態度では。拒絶ではなく、むしろ――
がくぽは呆然としながら、カイトの頤を離した。辿って後頭部を掴み、伸し掛かる。
「がくぽ……?」
常になく弱々しく、熱に潤む声をこぼすだけの相手に、がくぽはくちびるを寄せた。戦慄くくちびるに想いを募らせながら、吐き出す。
「夢のせいで逃げただと?たかが夢の?どうせなら現実の俺に喰われて、喰い尽くされて、――逃げろ。逃がしはしないが……逃げられるような下手は打たんが、せめて逃げるなら、現実の俺が原因で、現実の、俺から――」