とらろっく
後編
あっさりと言いのけた父親に、リンは無性に腹が立った。
なにを言っているのか。人間の分際で、人間風情が、――あまりに早く、あまりにあっけなく命を散らしてしまう、人間のくせに。
その、あまりにも短い時間を、束の間でしかない時間を、こんなふうに無駄にするなど、赦されない。赦していいことではない。
そうさせた自分が、赦せない。
「レンを信じるっていうの」
氷を吐くようにつぶやいたリンに、がくぽは片眉を上げた。座りこむ際に一度は畳んだ外套を再び広げ、リンへと覆いかける。
それでもすべての雨を防げるわけではない。リンも、がくぽも。
「己の息子だ。ましてや守りを頼んだは、カイト殿ゆえな。他ごとともかく、あれも『母親』のことなら無碍にしまい。その程度には、信頼している」
「リンとレンは、――!」
なにか言いかけて、リンの咽喉は圧する感情に潰されて閊えた。ただ、激情だけがある。
目の前にしゃがみこんだがくぽは、そんな娘に仕様がなさそうに笑いかけた。手を伸ばすと、濡れそぼって光を失った蜂蜜色の髪をくしゃくしゃと撫でる。
「仕様のない。そなたはまこと、カイト殿の子だ。暢気に見えて、己への厳しさが度を越している。挙句、己を痛めつけることに躊躇いがない」
「……っ」
振り払うことなく頭を撫でられながらも、恨みがましい目を向けるリンに、がくぽは笑っていた。
「そしてレンは、間違いなく、俺の子だな。愛おしのものを守るためなら、力を惜しまぬ。愛おしのものへの欲の深さもよう似て、時折自省に駆られて仕様ない」
「……………」
じっと、ひたすらじっと見つめるリンの頭を、がくぽは軽く掴んだ。顔を寄せ、額を合わせる。
「それで、娘よ。父がどうした?このような荒天に外に飛び出してまで、吐き出したい鬱憤があるのだろう?確かに俺は、父親としては未熟だ。だがな、そうまで思いつめた娘の不満を聞く程度も出来ないほどではないと、自負しておるぞ」
合わせた額は、冷たかった。
いつもいつも、火傷をしそうなほどに熱いのが、人間である父親だ。それに慰撫される母親などは、時折肌を羞恥以外のもので染めていることがある。
それでもその熱の虜なのだと、離れられないのだと、彼ははにかみながらも嫣然と笑う。
リンとレンを産み直してくれた母神は、カイトは、もとの母親を同じくする兄であり、男ノ神だ。
男ノ神でありながら男と番い、創生の全能神たる定めを持つ双ツ神を産み直せと強いられ、叶えた。
叶えたのは、この男だ。叶えられたのは、この男のゆえだ。
この人間の男に出会い、心底から愛し合うようになり――
子供を遣りたいと、カイトが願っていたことを、知っている。
このなによりも愛する人間の男に、彼の血を引く子供を遣りたいと、男ノ神である自分と番っては決して叶わない欲を、それでも満たしてやりたいと。
願い叶える神が願って、生まれたのはリンとレンだ。
母親と父親が愛し合った、なによりの証。
けれど古き誓約に基づき、再び生まれ直しただけの。
「ま…だ、ちっちゃい。から」
寒さには因らず、震えるくちびるを開いたリンに、がくぽは黙っていた。ただ、リンの頭を掴んだ手はくしゃりと髪を掻き回し、先を促すように動いた。
リンはこくりと咽喉を鳴らして唾液を呑みこむと、首を捻って振り返った。
今は背後に庇い、先には延々たる愚痴をこぼしていた相手を見る。
それは木だ。
まだ若い――根づいて間もない、幼生の。
気候の厳しい北の森で、若木が成木になるには余程の強さと運が必要だ。
降り積もる雪に埋もれるだけならまだしも、枝どころか幹から折られて枯れる木など、珍しくもない。
大きな木の陰に守られていれば雪の害は少ないが、そうすると今度は陽光や栄養が不足して大きくなれず、いずれこれも枯れる遠因となる。
この幼生の細木が根づくのは、そういった養分の奪い合いとなる大きな木から離れた場所だった。
だからと野辺の真ん中というわけではないが、つかず離れずといった距離で、少なくとも陽光や栄養が不足し過ぎることはない。
しかしこういった悪天候のとき、その影響が少なく済む位置でもない。
気が気でなかった。
昨年は持ち堪えたからここに今いるが、昨年はまだ芽吹いたばかり、ここまで天気の影響を受けるような大きさでもなかった。
今が、いちばんまずい。幹は太くなりきらずやわく、なのに上へ上へと枝を伸ばし行く。
「守りを、かけて、上げなきゃ……今日の嵐が、やわらかくて済むように。小さく、終わるように」
吐き出して、リンは瞼を落とした。ずぶ濡れの頬に、それでも意味の違う雫が伝うのを、感じる。
「ぱぁぱぁが、植えた木だわ。植えてくれた、木だわ………リンとレンが、無事に生まれて、いっしょにおっきくなるようにって。リンとレンの守り木となるようにって、………植えてくれたのよ」
その日その日で広い森の中を自由にうたい歩き、野辺を渡り行く母親が、ここには毎日必ず寄っていることを、リンは知っている。
だからといって贔屓に力を与え過ぎるようなことはしないが、様子を見に、必ず寄る。なにかあればすぐに手を伸ばせるように、癒しのうたを与えられるように。
なぜならこの木は、誰よりもなによりも愛する伴侶が、自分との間にできた子供の無事の誕生を祈り願い、植えてくれたものだからだ。
――がくぽがね、リンとレンの木って……リンとレンが、ぶじに生まれて、すくすくそだちますようにの、木って。
誇らしげに、愛おしげに、母親は生まれた子供たちに教えてくれた。自分が産み直した、末の弟妹たる双ツ神に。
それは父親の出身たる、東方の風習らしい。
東の国では子供が生まれる際に、木を植えるのだという。どういったなんの木を植えるかは、その家々のしきたりに因るらしいが、子供が生まれるとなれば木を一本、植える。
そして、子供が生まれるまでから生まれたあとも、子供と同じように慈しみ、育てる。
木に託されるのは、祈りであり、願いだ。子供が財に不足することがないように、食べるものに困ることのないように、あるいはまっすぐと頑丈に育つように――
必ずやこの<世界>に、生きてうまれるように。
生まれる子供がリンとレンであるとわかったあと、がくぽから求めたのだそうだ。
リンとレンのために、故郷の風習に倣って、木を植えたいと。
未だ何者かが生まれるかもわからないときに、そう言いだしたのではない。
生まれるものがリンとレンだと、異端の神が生まれ直すだけのことだとわかって、自分の血など一滴も継がないことがはっきりとして、――それでも、言い出した。
――今回の騒ぎで、親が子の無事の生まれを祈りたい気持ちが、故郷の慣わしが、ようやく身に沁みました。神とはいえ、必ず生きてうまれるとは、平穏無事に誕生の日を迎えられるとは、限らないのですね。子が生まれることは、やはり特別です。それが己の子となれば、なおのこと……
そう言って、がくぽは花の神であるカイトに相応しい木と場所を見繕ってもらい、植えた。
知恵こそ借りたが、カイト頼みで、<精霊>に植えさせたのではない。自分の、剣を振るう手を汚して土を起こし、幼い木が根を張るに容易いよう、やわらかに整え、水を与え――
願いと、祈りと、情愛を、こめた。
なによりも、生まれて来るリンとレン、自分の血を継がない娘神と息子神のために。
リンとレンに、人間の血は一滴もない。ひとしずく、ひとかけらも流れてはいない。
自分の血などまるで引いていない子供だと、わかっていて、それでも父親は与えてくれた。
与えてくれるのだ、『父親』を――
「折れたら、いやだわ。折れたら、泣くわ。折れたら……」
「仕様のない娘だ」
すでに泣きじゃくりながら訴える娘の頭をわしゃわしゃと撫で、がくぽはため息をこぼした。こぼして、笑う。
「それで?そなたのきょうだい木に、もうまじないは済んだのか。俺には怨々と繰り言をこぼしているようにしか見えなかったが」
茶化すように問われ、リンは激しく音を立てて洟を啜った。恨みがましい瞳を開き、笑う父親を睨みつける。
「……ちゃんとやったわ。とっくのとうよ。リンをなんだと思ってるの、ぱぁぱぁは」
「そのふざけた呼び方を含め、悪戯ばかりで懲りもせん悪童だと思っておる」
「……………………」
きっぱり言い切る父親の、繊細さと配慮のない回答に、リンの瞳はますます据わった。
娘からの冷たい視線に堪えた様子もなく、がくぽは笑う。笑って、リンの両脇に手を入れると抱き上げ、そのまま立った。
幼い、生まれたばかりのとはいえ、リンの体格は十代半ばの少女のものだ。小柄で華奢でも、相応の重さがある。
しかし達磨のような筋肉で鎧われているわけでもない細身の父親は、軽々と娘を腕に上げる。ぬかるみ、安定に欠ける足場にも、よろける素振りすらない。
「ぱぁぱぁ」
首に腕を回し、素直に縋りながらも咎めて呼ぶリンに、がくぽはやれやれと天を仰いだ。
「だからな……なにゆえ『ちちさま』ではいかんのだ。そなたにしてもレンにしても、……それはまあ、俺は確かに、イクサ場が生涯ほとんどの主な生活の場という、救いようない戦鬼であったし、父親として不足があるのは否めず自覚しておるが、――にしてもな。呼び方によって、意識を促す方法もあろうが」
ぼやく父親に、リンはふんと、反抗心たっぷりに鼻を鳴らした。ずぶ濡れのうえ、泥にも汚れる自分の体を躊躇いもなく外套の中に抱きこむ父親に、ぎゅうっとしがみつく。
「そんな気取ったの、はづかしいわ!リンは深窓のお姫様じゃなくて、野辺の神とイクサ鬼の夫婦の、じゃじゃな娘神なのよ!だってのに、そんな呼び方!舌かんじゃう!!」
「やれやれ……」
つれなく断る娘に肩を竦め、がくぽは歩き出した。
力強い歩みだ。冷たい雨に命を啜られ弱りながら、その素振りをいっさい見せない。
リンは空へと視線を投げた。北の、北らしい空だ。重く垂れこめながら、どこか白い。おそらくそろそろ、氷の粒が混ざり始めるだろう――
神の恩寵深く、もはや正確には『人間』とは言い難い域に在る父親だが、未だどちらかといえば、『人間』が強い。
その父親にとって、ことに厳しい季節が来る。
『人間』が強いからには、自分たち神なる家族がよくよく気をつけてやらなければ、すぐにもその命は潰えてしまう。
人間というのは、そういうものだ。
神を世界の北の果てにまで追いやりながら、個々人はあまりにあっさりと、はかなく逝く。
そんなことは、赦せない。
赦さない。
なぜならリンは未だ生じたばかりで幼くとも創生の全能神の片割れであり、レンと揃えばそれこそ、創生の全能神そのものだ。
創生の全能神がついていながら、たかが人間ひとり、生かせもせずに死なせるなど。
「………ゆるさないんだからね。おまえは、リンとレンの木なのよ。とーさまが、リンとレンのために植えてくれた、リンとレンのきょうだいなんだから………カンタンに、折れるんじゃないのよ。こんな程度の嵐で全能神がへこたれるなんて、とーさまにはづかしくって、顔向けできたもんじゃないのよ」
激しい雨に打ち消されるあえかな声でこぼし、リンは遠くなっていくきょうだい木へ向け、ふっと息を吹きかけた。
それは人間であれば、とても届かない呼気。
しかしリンは神だ。ゆくゆくは一族の長となる、創生の全能神だ。
掛けた守護をさらに重ね、リンはきっとして幼木を睨みつけた。
「しっかり耐えるのよ。また来るわ。きっと会いに来るんだからね!そのときに、傷ひとつもつけてたらだめよ!ひーきだろうが、知ったこっちゃないのよ!だっておまえは、とーさまがリンとレンのために植えてくれた、世界にひとつだけの、ぜったいトクベツな木なんだから!!」
小さな小さな声で、しかし厳しく激しく吐き出し、リンは締め上げる勢いで父親の首にしがみついた。
濡れて、冷たい。
けれど確かな弾力で、神であっても生まれたばかりの小娘が全力でもってしがみついた程度では、容易く音を上げもしない。
「ふんっ!」
鼻を鳴らし、リンは自分の両手に息を吹きかけた。ふうっとかけて、体温を上げる。次いで、きっとして宙を睨んだ。
「<精霊>、みずっ!!リンのぱぁぱぁに、無礼しないでっ!!」
叫ぶと、がくぽとリンの体から水滴が渦を巻いて離れた。絞れるほどに濡れそぼっていた体が、瞬時に乾いて熱を取り戻す。
しかしいつもとは違い、<精霊>の宿る水は遠くへ行くことはなかった。がくぽとリンの頭上で大きく広がり、留まる。
未だ雨は激しく降り続いているが、さすがは<精霊>の『傘』というべきか。
単に頭上からの雨粒を防ぐだけでなく、がくぽの体、足先にまでひと粒とはいえ降りかからないよう、周囲の水滴を渦に吸い集めている。
「そなたはなあ……実のところ、自分にも厳しいが、ひとにも厳しいな……そこはカイト殿とは違うな……カイト殿は、己には厳しいがひとには甘いものなあ……先にも、俺が少しばかり無理を強いたが、あっさり赦してしまわれて、それはまあ、閨事でもあるし、まるで嫌なことを強いたではないが」
父親のぼやきに、暗天の下でもきれいな蜂蜜色に輝くリンの髪が、震撼して逆立った。
「この距離でこの状態で、もしかして家につくまでずっとリンは、ノロケを聞かされるの?!すごいお仕置き過ぎて、ちょっと激しくめまいよ、ぱぁぱぁ!!ねえぱぁぱぁ?!ぱぁぱぁったら、リンの声聞こえる?!聞こえてるでしょ?!リンのいうこと聞いて、聞いてったら!!」
姿勢も歩みも先までと変わらず、しかし父親がぼやく声には確かに、人心地がついたという感があった。
衰えかけていたいのちの炎が、力強さを取り戻し、巻き返して燃え盛る。
が、それで吐きこぼされる中身だ。想定される、続きだ。
「ぱぁぱぁのまぁまぁばかぁあああっ!!」
「そう無闇と褒められてもな、うむ、そういえばこの間、カイト殿も……」
「ほめてないのよぉおおおうっ!!」
いずれゆくゆくは一族の長となり、創生の全能神となる娘神が全力で喚き立てても、母親ばかを極める父親はいつもの通り、聞く耳を貸してはくれなかった。