しょちぴるり
第1部-第15話
神は気配を感じさせない。
特に気配を忍ばせているとか殺しているなどしているわけでもないようなのに、がくぽには彼らが近づくことがまったく感じられなかった。
分厚い石壁の部屋二つを挟んですら、他人の気配を感じ、読むことが出来るのががくぽという剣士だ。
それが、遮るもののない野っぱらにいるときでさえ、間近にあるカイトの気配を探ることが出来ない。
目を離したら、終わりだと思っていた。
はぐれたら、容易には見つけられない。隠れ鬼などして遊んだら、汗みずくとなるだろう――見つからない、不安と恐怖の、厭な汗だ。
そのために、がくぽには常に不安があった。
カイトに助けられるきっかけとなったがくぽの怪我は、相当なものだった。生死に関わるという言葉も生易しい。
死の淵に落ちたがくぽを、神が無理やりに連れ戻したとしか言いようがない。
そんな怪我だ。
――というようなご大層な怪我をした結果、自分に気配を読む能力がなくなったのではないかと、危惧していた。
獣が寄ってくる気配は感じる。
だから大丈夫だろうとは思っても、不安が常にあった。
カイトと敵する者が現れたときにも、気がつかないままに過ごしてしまうのではないか、と。
「………」
どんよりとした雲に覆われて重くなってきた空を見上げ、がくぽは瞳を眇めた。
北の地方の冬は長く、厳しい。日が差すことはほとんどなくなり、心まで沈鬱に沈めるような重苦しい雲が、始終、空を覆うようになる。
カイトが手塩に掛けた花々も、次々と種を落とし、萎れて行った。
茶色が目立つようになった野辺を、それでもカイトは軽い足取りで歩く。頻度は減ったものの、時にうたを口ずさむこともある。
「たねってね。地面を、とんとんってして上げるのが、だいじなの。まってるよ、まってるよって、何度もなんどもいってあげると、冬にまけないで、次の春に、みんな元気に顔を出すんだよ」
愛おしげに言って、カイトは野辺を踊るように歩いた――いや、踊っていたのかもしれない。これから鎖されようとする北の森が、冬に負けることがないように。その、最後の活力を。
「………」
「がくぽ?」
きり、と奥歯を軋らせたがくぽを、先を行っていたカイトが不思議そうに振り返った。
立ち止まり、空を見上げるがくぽに首を傾げる。次いで、真似て空を見上げた。
「………?」
鳥もほとんど飛ばない。寒さに弱い鳥は南へと渡ったし、強い鳥が活動するのは、主に夜だ。
どんよりとした雲に覆われてはいても、まだ明るい今は、空はひたすらに孤独だ。
がくぽは顔を動かさないままに、視線だけで周囲を観察する。
感じた。
肌を突き刺し、ざらりと逆撫でされるような、あまりに不快な感触。
人間だ――この間は下手を打ったために追うことが出来なかったが、今日もまた、入りこんでいるらしい。
つい先ごろまでは慣れきって深く考えなかったが、人間の気配というものは、こうも不愉快なものだったのだ。
いや、おそらく、ただ人間だからというわけではない。
イクサ人だ。
消しても圧しても隠しきれない、血と脂のにおい。
背筋が凍えて、強張りながらしゃきりと伸びるような――馴染みの深いにおい。
自分の能力が衰えていなかったことに安堵はしつつも、がくぽはそのあまりの不愉快さに歪む表情を隠すことも出来なかった。
「………がくぽ?………いたいいたい?」
「………ぁ、いえ……」
いくら呼んでも応えないがくぽの前に、カイトが悄然としてやって来る。
上目で顔を覗きこまれながら訊かれて、がくぽはわずかに後ろへとにじった。
敵から下がることなかれと、脊髄に叩きこまれている。
しかしどうしても、足が逃げてしまう。
カイトは敵ではない。嫌いなわけでもない。むしろその反対だろうと思う。
どうしてこれほど彼に傾倒するかはさっぱりわからないが、どうしようもなく傾倒している自分がいる。
「…………痛いわけでは、ないです」
悄然と項垂れるカイトに、がくぽは微笑んだ。無理やりにではない。カイトを心細くさせたくないと思うと、自然に笑みが浮かぶのだ。
考えられなかった。
前の主の元では――仮初めに主と呼んだ相手の元では愛想笑いのひとつも浮かばず、浮かべる気にもならなかった。
それが今は、四六時中笑っている。機嫌を取りたいからだけでなく、カイトの笑顔を心から見たいと願えばこそ。
「ただ……」
言いかけて、がくぽは瞳を見開くと、ほとんど反射で剣を抜いた。
「がくぽ?!」
カイトが叫ぶ。
「シッ」
がくぽは鋭い呼気とともに、剣を振るった。木の上から落ちてきた黒い影を、軽々と跳ね飛ばす。
「………隠密衆かっ」
小さく吐き出す声は、忌々しさに歪んだ。
跳ね飛ばした相手は、頭から爪先までを、体にぴったりと張りつく黒装束に覆い隠していた。出ているのはわずかに、瞳と手先だけ。
動きやすさだけを優先に、防寒も防御も捨てて作られた、細作のための合理性を追求した衣装。
各国にさまざまな細作の衣装あれど、この相手の衣装はがくぽにはよく見慣れたものだった。
がくぽの出身である、東方の細作。
その用いる技と心得の最悪さで名高い、隠密衆のものだ。
メイコが言っていた。
そもそも、カイトに護衛を付けたいと言い出した由縁だ――森の傍に、『がくぽと同じニオイ』の人間がいると。
彼女の平易な言葉を解釈すれば、それは間違いなく、がくぽの同国人がいるということになる。
彼らは、神を求めている。イクサで疲弊した土地を興すための、養生の神を。
――うたによって植物を癒し、生育を助けるカイトは、理想そのものだろう。
跳ね飛ばされた隠密衆は、器用に体を反して木の幹に着地し、軽々と地に下りた。そこからがくぽへ向かってくるではない。
あっさりと背を向けると、森の中へ駆けこんだ。
「……っ」
きり、と束の間くちびるを噛んだがくぽは、隠密衆の後を追って駆け出した。
「がくぽっ!!」
「メイコ殿をお呼びくださいっ!!」
カイトをひとり置くことに、不安はある。だからといって今、隠密衆を逃すわけにもいかない。
気配を探った感じ、あの周辺にはもう人間はいない。単独行動が基本の隠密衆だ。これもまた、偵察のひとり。
下っ端だが、見過ごすことは出来ない。彼らの行く先には必ず、集団がいる。持ち帰られた情報を元に動く、本隊が。
でたらめとしか思えない軌道で駆ける隠密衆を追って走り、がくぽは森の端まで来た。
境界に立ったところで、森の中へと飛び退る。
「やはりな」
つぶやくと同時に、剣を振るう。耳の痛くなるような金属音が響き、周囲を取り囲んだ大小さまざまな剣が跳ね飛ばされた。
予測の通りに、境界には隠密衆数人が潜んでいた。
逃げるべからずを脊髄に叩きこまれた、がくぽら剣士と同じ東方の出身ではあっても、彼らはあまりに簡単に敵へ背を向ける。逃げることを恥としない。
そして、調子に乗って追ってきたものを、集団で囲んで餌食とする。
ある程度の手の内は読めている相手だ。国を出てから、幾度も戦った。だけでなく――
背中から、脇から、器用に連携して襲ってくる彼らをあしらいつつ、がくぽは森の外の気配を探った。
軍気がある。
全軍ではないが、一軍は来ている――おそらくは神を狩り、自国に連れ帰るために。
「………させるか」
つぶやくがくぽの気配が、変わった。
幼子を導く師にも似ていた剣筋が、あからさまな殺気をまとう。振るわれる剣の鋭さが冴え、重さが増し、空気すらも切り裂くように隠密衆の間を走った。
「………っ」
時を置かず、ぴぃいとかん高い指笛の音が響き、がくぽを囲んでいた隠密衆はいっせいに下がった。
後を追おうとして、がくぽは動きを止める。
「お久しぶりです、神威。この裏切り者」
同じように隠密衆の証である黒装束ながら、意思があるかないか不明だった彼らとは違う。
新たに森へと入って来た青年は、もっとも秘匿すべき顔を衣装によって隠すことなく、晒していた。
――隠すことに、意味がないのだ。少なくとも、がくぽを相手にしては。
彼は隠密衆は隠密衆でもその頭の一角を務める、幼馴染みの青年だった。
「…………キヨテル………」
人の好い笑みを浮かべ、やわらかな声で呼んだ相手の名を苦々しくつぶやき、がくぽは剣を構え直した。