しょちぴるり
第2部-第3話
カイトは、野辺を歩く。
雪が薄くなり、茶色い地面が覗き出した。北の森の長く厳しい冬が、ようやく明ける。
草花の種はいっせいに、芽吹きの季節を迎えようとしていた。己を守る殻を必死に突き破り、力強くも暖かく自分たちをくるんでいてくれた土から顔を出し――
「♪」
うたう。
まだまだ、北の天気は油断が出来ない。
そろそろ大丈夫だろうと思っていると、裏切られて突然に大雪になったりする。
そういう突発的な天候の変化にも負けることなく成長するようにと、カイトは芽吹いた植物を祝福するうたをうたう。
言祝ぎ、守りを与えるうた。
生命力を与え、活力へと変えるうた。
冬から春へ、変わる季節の、もっとも大切な仕事――
「♪――♪」
カイトはうたい、まだ雪の残る野辺を歩く。ただ歩くのではない。足は常に、一定の拍子を取っている。
それもまた、守護の術だ。
足で地面を叩く。
その音が、その振動が、草花へと伝える言葉になる。
待っているよ、と。
おまえがうまれてくることを、まちわびているよ、と。
「♪」
うたう。
うたをうたうことに、思うことはない。
ひたすらに無心で、求められるままに、うたう。
根が弱い、土が固い。
そんな訴えを聞いて、ならばそれを乗り越えられる力を与えるうたを、と。
生まれたことを祝いたい、この行く先に希望が欲しい。
そんな求めを聞いて、ならば言祝ぐうたを、希望を募らせるうたを。
「♪………」
うたいながら、カイトはちらりと背後を見た。
野辺の端で、がくぽが木に凭れて立っている。その視線は常にカイトの姿を追って、離れることはない。
まとわりつく視線の力を、いつでも感じる。
優秀な剣士だったのだろう。がくぽの眼力は、人間にしてはなかなかのものがあった。
その厳しく強い眼力で、がくぽはカイトを見守り、常に周囲を警戒している。
そんなことが必要なのか、カイトにはわからない。
冬の初め、人間が入りこんでいたことがあるから、森の中が絶対の安全地帯でないことはわかるが、だとしても――
「………」
うたい止んで、カイトはがくぽの元へ向かった。
カイトが近づくにつれ、寒色だったがくぽの気配が暖色を帯びて輝き、心を弾ませるさまがつぶさにわかる。
そう。
心弾ませるということは、とりもなおさず、嫌われてはいないということ。
「………がくぽ」
「終わりましたか」
傍に行ったカイトに、がくぽは微笑む。
「次はどこへ行きますか?」
「……ん」
訊かれて、カイトはくちびるをわずかに歪ませた。
一見悩んでいるようだが、行先が決まっていないわけではない。
問題は、がくぽだ。
「…………あのね、がくぽ………」
「はい」
口を開いたものの言い淀み、カイトは迷うようにくちびるを空転させる。がくぽは急かすこともなく、カイトの言葉を待つ。
がくぽを見つめてしばし考え、カイトはちょこりと首を傾げた。
「がくぽ。……………おれに、うたってほしいうた、ない?」
「………うた、ですか」
「うん」
脈絡のわからない問いに、がくぽは花色の瞳を見張る。
カイトは頷いて、そんながくぽを縋るように見つめた。
「なにか、ない?」
「……」
訊きながら、身を乗り出す。伸ばした手はがくぽの着物を掴もうとして、――さりげなく、避けられた。
触れていない。
ここ最近、がくぽにほとんど触れていない。
冬が始まってしばらくは、いつもどおりの生活だったと思う。
けれど人間が来て、戦って――傷を負って、カイトが癒して。
それからというもの、がくぽはひどく精力的に動くようになった。
それまでは漫然とカイトの後をついて歩いていただけだというのに、アレが欲しいからどこにあるかとか、コレが欲しいが似たものはないかとか、訊かれてはそこに案内する日々。
そして手に入れた材料で、がくぽは壊れかけの住処を修復し、自分の場所として整えた。
おそらく、それは歓んでいいことだ。
修繕し、生活場所を整えるということは、とりもなおさずここに腰を落ち着ける気になった、証左のひとつ。
ずっと住まう気もないのに、一時の仮宿などを苦労して整えても意味がない。
もうひとつ言うなら、すぐに死ぬ気ならば、やはり宿を整える意味などない。
だから、住まうところを修繕するがくぽは、本来ならばうれしいはずだ――常に、死にたがりの気配が見え隠れしていた。それが形を潜めて、生きることに貪欲になった。
そう、うれしいことだ。
本来ならば。
しかし――
「ね?」
カイトは懸命に、がくぽを見つめる。
触れていない。
修繕がひとつ成るたびに、がくぽはカイトから距離を空けた。冬が終わるころには住まう場所だけの修繕は終わって、そして触れていない。
以前なら、カイトが伸ばした手を、がくぽはきちんと握り返してくれた。
抱きつく体を、きつく抱きしめて受け止めてくれた。
今は、避けられる。
さりげないけれど、触れ合う前に必ず避けられる。
だから、触れていない。
ここ最近、ほとんどがくぽに触れられていない。
どうしてそうなったのか、カイトにはさっぱり理由がわからない。がくぽに問い質せばいいのだろうが、いざ目の前にすると、怖じ気てしまう。
「…………そうですね」
しばらく考え込んでいたがくぽが、微笑みとともにカイトを見つめた。
やさしく、やわらかな笑み。
笑みだけ見れば、なにも変わっていない気がするのに――
見返すカイトに、がくぽは迷うことなく求める。
「あなたの、いちばん好きなうたが、聴きたいです」
「………おれ?」
答えに、カイトは瞳を瞬かせた。
意味が理解できないようなカイトに、がくぽはこっくりと頷く。
「ええ。あなたが好きなうたです。あなたがいちばん好きで、いちばんうたいたいうたが、聴きたいです」
「………」
求めに、カイトはひたすら瞳を瞬かせた。
望まれるもの。
それが神。
それが、力ある存在というものの、生き方。
ずっとそう思ってきて、実際、なにかを望まれたことしかない。
なにが欲しい、あれをしてくれ、これを――
その中に、『カイトがしたいことをして欲しい』という願いは、一度たりとてなかった。
それは、神同士であってさえも――
「………」
「……カイト殿?」
カイトは瞳を瞬かせ、がくぽを見つめる。
無言で見つめられるがくぽは戸惑うように、それでも笑みを刷いてカイトを見つめ返す。
好きなうた。
うたいたい、うた。
うたいたいうたとは、なんだろう。
うたうことが、好きだ。それが本分であり本能。
だからなにが好きも嫌いも、ない。
うたえと望まれることが、すべて。
うたいたいと望んで、うたったうたなど、これまで――
「………おれは」
ややして開いたカイトのくちびるからこぼれた声は、緊張に掠れてひび割れていた。
「おれは………」
うたいたい。
うたいたいうたがあるとしたら、今、それは――
「カイト殿」
「おれは………」
がくぽが、望むうたを、うたいたい。
がくぽが望むうたを、うたって。
がくぽに、気に入られたい。
がくぽに、近づきたい。
触れて、抱きしめて、抱きしめられて。
「………っ」
「カイト殿?」
ふわっと赤く染まったカイトに、がくぽの声が訝しげになる。
どうして、距離を空けるのだろう。
いつでも、うるさいほどの、痛いほどの視線で、自分を見ているのに。
近づくと、うれしさいっぱいに輝くのに。
なのにどうして、触れることを赦してくれないのだろう。
わかる思いはきれいに清明なままで変わらず、心惹かれた当初のまま、濁っていない。
けれどなにを考えているのか、わからない――
「おれは………っ」
「っ」
言葉にならず、カイトは体ごとがくぽにぶつかった。驚いたように息を呑んだがくぽだが、よろけることはない。
さすがに避けられることもなく、ようやく触れられて、カイトはがくぽの着物をぎゅっと握りしめた。
「………すみません、カイト殿……」
あやすように背を撫でながら、がくぽは静かに謝る。
「困らせて、しまいましたか?」
「………っ」
ぶるりと震えて、カイトはますますがくぽにしがみついた。
困らせられた。
困らせられたとも――困らせられている、真っ最中だ。
カイトの望みを叶えると、がくぽは言った。
望めと。
死にかけのあの瞬間の言葉を、きっと覚えてなどいないはずなのに。
それでもがくぽは事あるごとにカイトに、望めと言うから――
望まれるために生まれて生きてきたカイトに、望めと言うから。
「ぎゅってして」
「………」
「ぎゅってして!」
「………」
愚図るように叫んだカイトに、がくぽは束の間息を呑んで躊躇ったが、すぐに背中に回した腕に力を込めてくれた。
痛いほど、折れそうなほどに力強く、望んだままぎゅっと抱きしめられる。
触れる体が熱い。
伝わる想いは、熱い。
熱くてあつくて、火傷しそうなほどだ。
「………っ」
うたが、そこにあると思う。
たぶん、がくぽが求めて言うとおり、カイトがいちばん好きで、今、もっともうたいたい、うた。
けれどどういうわけか、その片鱗を掴むことも出来ないままに。
咽喉からこぼれるのは、掠れた吐息。
声にもならず、言葉にもならず、形に出来ない、未熟で未発達なこころ。
形に出来たなら、そのときに――
この苦しさからもきっと、救われると思うのに。
「カイト殿……」
しがみつくカイトを、がくぽもまた、きつく抱きしめてくれる。
安堵と、うれしさと、――等分にある、負の想い。
「カイト殿……」
「………」
もっと、ずっと、呼んでいてほしかった。
自分の名前を。
大切なのだと、なにより雄弁に語る、その声音で、口調で、しぐさで――