「なにを遊んでるんだろうねえ、あの人間は」
ひらりひらりと、ひとり野辺を舞うがくぽを見ながら、ミクはぽつりとつぶやく。
まるで相手でもいるかのような、剣の軌道だ。
イクサ人ともなると、鍛錬も実戦と変わらない想定で行うものなのか。それにしてもまた、見事な一人上手ぶりだ。ああまでなると、感心を通り越して呆れる。
しょちぴるり
第2部-第15話
「……ミク」
木の根元に座ってがくぽを見つめていたカイトは、唐突に降って来た声に顔を上げた。
頭上の木の枝に、ミクがごろりと寝そべっていた。
葉に紛れる色の髪のミクは、木を『通り道』とすることが好きだった。そこでのんびりと休むことも、好きだ。
その結果として、冥府の女王に触れられた木が、生気を失くしても――
「や、カイト」
枝の上から手を振り、ミクは落ちるように地面へ降りた。
カイトは振り返り、木の幹に手を当てる――わずかに、生気を失っている。
「……♪」
小さくちいさくうたうと、木はすぐに元気を取り戻し、心なししょげていた枝をもたげた。
傍らに立っていたミクは、うたうカイトを見つめる。
うたい終えたカイトが顔を上げると、ミクはごく間近にしゃがみ込んだ。ほとんど触れ合わんばかりだ。
「うたったんだってね」
「……」
近過ぎる顔に咄嗟に焦点が合わず、カイトは瞳を瞬かせる。軽く身を引いてから、首を傾げた。
ミクはそれ以上寄ることもなく、平板な声で続ける。
「『滅びのうた』」
「………」
告げられて、カイトはくちびるを噛んだ。
今日まで、ミクが顔を出さなかったことが、異常なのだ。いや、メイコ以外に叱られなかったことが。
禁忌であればこそ、『滅びのうた』を持った男ノ神はすべて、森から追い出された。
『いのちのうた』を選び、『滅びのうた』を自ら封じればこそ、カイトは森に在ることを赦されたのだ。
封じきれず、『滅びのうた』をうたえると示した以上、なんらかの裁定は下る。
どれほど人間に迫害され、世界の片隅に追いやられても、ならば諸共に滅べと願う破滅思考は、神にはない――少なくとも、総意としては。
けれど身に宿したうたはうたわれることを望み、意を裏切って飛び出してしまう。
総意としては望まずとも、個としての意識は別。
であればこそ個を森の外へと追いやり、自分たちの首を締めようとも、時満ちるまでは世界の平衡を保ち続ける。
それが、神――神の総意。
「………ミク」
「あの人間、死んだんじゃなかったの?」
「ミクっ」
不吉な言葉に、カイトは総毛立って叫んだ。
思い出したくない。想像もしたくない。
抱いた体。
いつも火傷しそうに熱いのに、どんどん冷えていった。反するように、腕の中で重さだけが増して。
命が失われ、体が容れ物と化す。
その感触――思い出すもおぞましく、震え立つ。
瞳を潤ませるカイトに、ミクは悪びれもせずに首を傾げた。
「死んだら冥府に来るから、ボクが裁定を行うね。イクサ人だから間違いなく、人間を大量に殺してるはずで」
「ミク!!」
「あのくらいの腕ともなれば、神も殺してるかもしれないから、厳罰は免れない」
「ミク!!」
手を伸ばしたカイトを、ミクはしゃがんだまま避けた。
「――さわんないで」
困ったように、言う。
彼女が求める意図はわかっていても、カイトは手を伸ばした。
「だったら、いわないで!!」
「想像も出来ないんだね」
「………っ」
くちびるを噛み、カイトは洟を啜った。伸ばした手を戻すと、膝の上で固く握りしめる。
俯いたカイトに、ミクは瞳を和らげた。
「……あの人間は、死ななかった」
「そー、だよっ」
とげとげしく吐き出すカイトに、ミクは構うことなく続ける。
「そして今、この木も蘇った」
「………」
ミクがしたかった話の核心が見えた気がして、カイトは慌てて顔を上げた。すんと、洟を啜る。
「ミク」
「『いのちのうた』は、失われていない」
「………うん」
これまでの男ノ神は、『滅びのうた』を選んだ時点で、『いのちのうた』がうたえなくなっていた。
どちらか、なのだ。
けれどカイトは一時的にであれ、『滅びのうた』をうたったというのに、今も野辺を歩き、祝福のうたをうたう。
生命を言祝ぎ、力を与えるうたを。
「正直なとこ、ボクらはすんごく迷ってるんだよ」
「………うん」
今度はカイトも、素直に頷いた。
まったく『滅びのうた』しかうたえなくなったというなら、放逐するしかないだろう。
なのにカイトは、『いのちのうた』を取り戻した。
とはいえ、身に巣食う『滅びのうた』が消えたわけでもない。いつまた、なんのきっかけで蘇るか、わからない。
そんな危険なものを置いておくわけにはいかないが、さりとて、『いのちのうた』は貴重だ――
「――ほんと、あの人間、ヒョウキンだなあ」
「……」
カイトから目を逸らしたミクは、野辺で舞い踊るようながくぽを見つめ、呆れたようにつぶやく。
自分が引き金だと、自覚しているのか、と。
問い質したいが、なにか珍問答になりそうな予感がする。少なくとも、メイコの話を聞く限り。
未だにこうして、カイトが清い体でいることがなによりも、珍問答にしかならないという確信の元だ。
肌の透ける、薄絹。
白い肌が透けて見えるだけでなく、そこに飾られた小さな胸の突起や、浮いた骨、細く続く腰の線まで、これ以上なく扇情的に映えるというのに。
「……なんにも、変わんないのかなあ」
「っ」
ぼやいたミクに、カイトがあからさまに身を強張らせた。
目の端に入れたものの、ミクは殊更に反応などしてみせない。
「なにかしら、反応があってもいいもんだけどねえ」
知らぬふうに、ぼやき続ける。
がくぽを見つめ、ミクへと視線を流したカイトは、しばらくくちびるを空転させた。
「……………がくぽ、おれのこと。………めんどくさい、かな」
「……ふぅん?」
ミクは気のない素振りで、相槌を打つ。
「なんで、そう思うの?」
とりあえずといった風情で、先を促した。
カイトは喘ぎ、言葉にするのが恐ろしいと、躊躇う。
急かすこともなく、ミクはがくぽを見つめたまま、カイトの言葉を待った。
ややして、カイトはきゅっと両手を握り合わせ、俯く。
「………あんまり、さわってくれなく、なった」
「…………」
内心では快哉を叫びつつも、ミクは表情にも態度にも、一切表さなかった。
ただ、ちらりとカイトへ視線を流す。
「へえ?」
気のない素振り続行で、先を促した。
カイトは喘ぎあえぎ、握りしめた両手に爪を立てて、言葉を探す。
「いっしょに寝られないって、いったり、ぎゅってしてくれなくなったり………ちょっと手をのばしても、なんかすぐに、よけられたり………」
「………」
ミクはカイトから視線を逸らし、がくぽへと戻した。
東方の剣士の噂はいろいろ聞いたが、今に至って確信した。
その忍従、呆れるしかない。
「ふぅん………」
音にされるミクの相槌はあくまでも、気がない。
カイトは顔を上げ、横を向くミクを懸命の眼差しで見つめた。
「で、でもっ!ずっとそばにいたいって、いってくれたっ。寝るのも、いっしょに戻ったし………ぎゅってしてっていうと、ぎゅってしてくれるし………!」
「でも、自分からはしてくれないんだ?」
「………っ」
気のない素振りでも、ミクの指摘は痛いところを突いている。
カイトは息を呑み、軽く仰け反った。
「で、でも……がくぽはもともと、べたべたするの、好きじゃないから」
「おかしーなーって思うようになったの、アレ以降でしょ?」
「………」
言葉を継げなくなって、カイトは黙りこむ。
ミクはちらりとカイトを見て、剣を振るうがくぽへと視線を戻した。
生き生きとした太刀筋だ。生き甲斐に満ちて、明るい。
大勢の血を吸った剣にそんなことを言うのもどうかしているが、希望に満ちている。
「………こわくなったんじゃないのー」
「………っっ」
ミクがぽつりとこぼした言葉に、カイトはあからさまに強張った。
今まで考えないように考えないように、注意深く、避けてきた可能性――
がくぽは、見たのだ。生気を失った森を。
生き物も無機物も例外なく『枯れ』た、森の外の大地を。
それをすべてカイトがやったのだと、知っている。
態度が変わったのは、メイコにそのことを聞かされてからだった。
あからさまではなくても、距離を取られるようになった。
少しずつ、すこしずつ――
がくぽは、住まうところを修繕して、居心地を整えて。
そんな面倒な作業を、出て行こうとする人間がするわけがない。
だから、大丈夫、だいじょうぶ――
そう、言い聞かせてきた。
けれど実際のところ、体の距離は開いて、心が掴めなくなって。
好意は失われていないと、思う。
自分が近づくことで輝くがくぽの光が、なにより雄弁に、好意を物語るから。
それでも、そこに恐怖が隠れていないと――潜んでいないと、言い切ることは出来ない。
距離は、開いていっているのだから。
「人間だもんね、仕様がない。………神の力は、恐ろしいよ。それゆえに、ボクたちは迫害されたんだ」
「………がくぽ、は」
ちがうと、言いたかった。
触れた、くちびる。
手のひらに落とされた。
与えられた、誓いの言葉――真摯で、真っ直ぐな。
翳りもなく、陰もなく、――
「がくぽは…………」
翳りがないと、言い切れるだろうか。
陰など、一寸も見当たらない、と。
どこか惑うような、がくぽの瞳。
躊躇いがちに、触れる手。
揺れる声。
笑顔はやさしくても、線が厳然と存在している。
「がくぽ、は………っ」
カイトの咽喉が引きつり、ひゅうっと空っ風が通った。
「…………ま、人間にあんまり期待しちゃだめだよ、カイト」
言葉がすでに届かなくなっていることはわかっていて、ミクは告げると立ち上がった。
くるりと踵を返し、風もないのに不快にざわめく森の中へと、足を踏み入れる。
「――哀れなことを」
深く暗い森の中でも輝くような、まさに今の季節を体現している色を纏うルカが迎え、ひっそりとつぶやいた。
感覚が掻き回され、世界が揺らぐ。
歪んで撓み、奈落へと落ちて行く、その予兆。
怯え震える森の声に耳を圧されて頭を叩かれつつ、身を引き裂かれる痛みとともに、ルカはミクを見つめる。
「もっとやりようはあるでしょうに――あれではあまりに、カイトがかわいそう」
「悠長なこと、言ってられないよ」
真っ直ぐ立っている気もしていないミクは、それでも笑いにくちびるを歪めた。
「これでもダメなら、もう、後はないんだ」