ふいに、双ツ神の姿が消え失せた。

なんの手妻だと思ってから、がくぽは身を強張らせる。

森が鳴っている。

風もないのにざわりざわりと揺らぎ、芽吹こうとしている草が、蕾を開こうとしている花が、悲鳴のように――

しょちぴるり

第2部-第16話

覚えているのはいつでも、意識を飛ばす寸前の、曖昧なものだ。

カイトの腕の中、意識を飛ばしかけているときに限って、いつでもこの不快な音が鳴り響いた。

その不快さに縋って意識を保ったこともあるし、あえなく飛ばしたこともある。

けれどいつでも共通しているのは、カイトが泣いていた――がくぽを、抱いて。

意識を失いかけ、命を落とそうとしている、がくぽを。

「………カイト、殿?」

今、がくぽは生きている。怪我のひとつもしていない。

双ツ神に神経を掻きむしられたが、疲弊しているわけでもない。

戦慄しつつ振り返ったがくぽは、息を呑んだ。

カイトが、泣いている。

その傍にいたはずの、ミクの姿はない――

「……っ」

剣を鞘に納めながら、がくぽはカイトの元へ走った。

地面が揺らいでいる気がする。

このくらいで気を確かに持てと自分に言い聞かせたが、もしかしてという疑念も掠めた。

森が、草花が、ざわめいた――意識が飛びかけて、あるいは飛んで、記憶は定かではない。

それでもそのあとに、カイトはうたった――『滅びのうた』を。

もしも森が予兆に震え、終末を、消滅を恐れ、怯えているのなら――

「カイト殿っ!!」

傍らに走り寄り、膝をつく。

カイトは滂沱と涙を流し、咽喉を引きつらせ、浅く忙しない呼吸をくり返していた。

「カイト殿、いかが………どうしました」

「さわらないで」

涙を掬おうと伸ばしたがくぽの手を、カイトは虚ろな瞳で見た。口元を両手で覆って懸命に嗚咽を堪えながら、それでも引きつった音が漏れる。

「…………さわらないで」

「カイト殿」

拒絶に、がくぽは戸惑いを隠すことも出来ず、ただ膝をついていた。

伸ばした手は無為に宙を彷徨い、さりとて引くことも出来ない。

「………ミク殿と、喧嘩をしましたか」

「がくぽなんか、キライ」

「っ」

がくぽの問いに、カイトは涙に歪む声を吐き出した。

悲痛に染まって、怒りも垣間見える。

強張ったがくぽに、カイトは引きつる呼吸をくり返した。

「っがくぽ、がくぽなんか、キライ…………おれに、ウソいう、がくぽなんか、キライ………!」

「っカイト、殿っ」

体も表情も硬く強張り、がくぽの声は呻きにしかならなかった。

胸が圧される。思考が眩んで、動かない。

カイトに拒絶された。

その一事で、がくぽのすべてが崩れ落ちていく。

「カイト、殿………私は、嘘など」

「ウソ!」

弁明も聞かず、カイトは叫んだ。

森が轟と鳴いて、草花が上げる悲鳴は激しくなり、地面が蕩けて沈んでいくような気がした。

さっきまで機嫌よく晴れていた空に暗雲が広がり、ぽつぽつと雨が降り出す。

春先の雨は、すぐにも雪に変わりそうなほど、冷たい。

その冷たさに縋って正気を保ち、がくぽはカイトへと手を伸ばした。

「カイト殿、どうか」

「おれのことキライなのに、さわんないで!!」

「っ?!」

伸ばされた手を、カイトは身を捩って避ける。

叩きつけられた言葉に、がくぽは息を呑んだ。

誤解している。

そう思った。

嫌っているなどと、そんなことがあるわけがないのに。

愛おしいと思えばこそ、この身も心も灼かれているのに。

がくぽは止めることなく手を伸ばし、カイトの肩を掴んだ。加減もせずに、指が食いこむほど、骨が軋むほどに力を入れる。

「カイト殿、なにか、誤解を」

「こわいんでしょ?!おれが、『滅びのうた』をうたうから………だからさわるの、イヤがるんでしょ?!」

「………っ」

肩を掴む手から、力が抜けた。

そんなことをすれば、カイトがもっと誤解するとわかっていたが、勝手に力が抜けてしまった。

カイトは息を引きつらせ、滂沱と涙をこぼす。ぎゅっと瞳を閉じると、両手の中に顔を埋めた。

「おれのこと、こわいのに、キライなのに、さわらないで………っっやさしいフリ、しないで!」

「………」

降り出した雨はすぐに強くなり、がくぽの体を冷たく凍えさせていく。

頭からびしょ濡れになって、その冷たさに、どうにかこうにかまだ、自分が生きて呼吸をしているのだと、意識の隅がささやいた。

冷たさに、理性と正気を託して。

眩んで落ちる、この心を――

土砂降りの雨に、カイトもまた、濡れていく。その瞳からこぼれる涙の量ももうわからず、けれど嗚咽が続いているから、きっとひどく泣いている。

腹の中が、熱くうねっていた。

一度は力の抜けたがくぽの手が、少しずつ少しずつ、カイトの肩に食いこむ。

骨も折れよとばかりに力が入り、がくぽはゆっくりとカイトへ体を寄せた。

「………カイト殿」

「……………………ウソ」

低く掠れた声で呼んだがくぽに、啜り泣きながらカイトはつぶやいた。

「…………キライなんて、ウソ………キライじゃない………がくぽ、キライなんか、なれない…………」

悲痛につぶやいて、カイトはますます小さく、体を丸める。

手の中に顔を押しこんで、嗚咽をくり返した。

「おねがい………おれのこと、キライにならないで……………こわがらないで。がくぽが望むなら、もうぜったい、『滅びのうた』なんか、うたわない……………………ノドをつぶしたって、いいから」

「カイト殿!」

叫んで、がくぽはカイトを抱きこんだ。

「カイト殿……っ」

「おねが…………っんぅっ」

吐き出される言葉を塞げとばかりに、がくぽのくちびるがカイトのくちびるを覆った。

――雨に濡れて冷やされて、それでもやはり火傷しそうな熱さだと、カイトは震える。

開いたくちびるに舌が入りこんで、口の中を乱暴に掻き回した。

「んぅ………っん……っふ、んんぅ………っ」

「カイト殿………っ」

口づけの合間に、がくぽは狂おしくカイトを呼ぶ。

耳が蕩かされそうだ。

思って、カイトはがくぽへと縋る手を伸ばした。

この手が弾かれることがあったなら、もう――

「カイト殿」

「………っ」

抱きこまれた体に押しつけられた熱に、カイトはびくりと大きく震えた。

火掻き棒でも押しつけられたような、衝撃がある。

驚きに強張るカイトに、がくぽは束の間、瞳を伏せた。

しかしもう、隠しておくことも出来ない。

体に灯った熱は、春の凍える雨にすら冷やされることもなく、呼吸も覚束なくなるほどにがくぽを急き立てる。

「…………誤解です、カイト殿」

それでも、吐き出されるがくぽの声は、ひどく冷静に響いた。

見つめるカイトをきちんと見返して、がくぽは微笑みを浮かべる。苦しく歪み、堪えきれない愛しさに溢れる笑みを。

「………私があなたに触れないのは、あなたが怖いからでも、嫌いだからでも、ありません」

「………」

「あなたに怖がられたり、嫌われたくないからです」

ささやきながら、がくぽの手はやさしく、カイトの髪を梳く。

濡れそぼり、絡みつくカイトの髪を、それでもやわらかに。

カイトの足には、がくぽの熱の感触がある――意識すればするほど、震えが止まらなくなる熱さだ。

「ぁ………」

カイトは怯える声を上げて、がくぽへと手を伸ばした。

一度は止まった手が、がくぽの着物を掴み、縋りつく。

がくぽはカイトを抱きしめ、その肩口に顔を埋めた。

「――すみません。あなたに、劣情を抱きました………誰よりも守りたい、誰からも守りたい、あなたに………」

「………」

雨は降り続く。

人間であるがくぽには、致命的に冷たい雨だ。体からはどんどん体温が奪われて、凍えているはずなのに――抱きしめる体が、ひどく熱く感じる。

「………っぁ…………っ」

カイトは苦鳴にも似た声を漏らし、がくぽに擦りついた。

体が爛れて、蕩け落ちそうな気がする。

「がくぽ………」

「はい」

熱に浮かされた声で舌足らずに呼ばれて、がくぽはますますきつく、カイトを抱きしめた。

痛みすら覚える力に、カイトの瞳が和み、くちびるが笑みに近い形を刻んだ。

「………むつかしくって、わかんない………」

「………」

甘える声で吐き出すと、がくぽは束の間、固まった。

構わず、カイトはがくぽに擦りつく。

「…………もっとちゃんと、カンタンにいってくれないと、わかんない………」

声は蕩け、しぐさも甘えている。

固まっていたがくぽは、ふいにカイトの体を引き離した。

濡れる地面へと転がすと、その上に伸し掛かる。

逃げる気もないのに押さえつけられて、カイトは軽く顔をしかめてがくぽを見上げた。

「がくぽ、いたい………」

「あなたが好きです、カイト殿…………あなたが女性ではないことはわかっていますが、それでも、あなたを抱きたい。あなたの腹の中に、私の雄をねじ込みたい」

「………」

告げられた欲求に、カイトは横たわったまま、瞳だけ伏せた。

しかし瞬時のことで、すぐに、押さえつけられて不便な手をがくぽへと伸ばす。

冷たく凍えた頬を撫でて、カイトは笑みを浮かべた。

「いいよ」