ぱしゃんぴしゃんと、カイトの足が湯を弾く。子供のように無邪気なしぐさだ。
肩まで湯に浸かったがくぽは、傍らでぶらつく足を漫然と眺めていた。
しょちぴるり
第4部-第16話
冬が来る前にカイトが造った温泉は、夏になっても心地よく入ることが出来た。なにより北の地方は、夏であっても他の地域ほどには暑くならない。水浴びをしようと湖に入れば、この季節でも凍える。
そういう場所だから、多少熱いくらいの温泉もひどく心地よいものだった。
冬の間は、日常暮らす場所との距離もあり、道が雪に埋まっていたこともあり、なかなか入れなかった。
しかし夏ともなれば道を邪魔するものもなく、毎日のように楽しめる。
カイトの森歩きに付き合って、帰途。
この温泉に寄ることが、今は日課のひとつとなっていた。
カイトは湯を必要としないが、がくぽがやっていることは真似したがる。初めは、裸になって湯に浸かるがくぽを追って湯に入ろうとした。
この温泉を造った当初、冬に入る前にはそのたびに、疼く体と気持ちを持て余したがくぽだが、今は違う。カイトとは相愛の仲で、共風呂も大切な触れ合いの時間だ。
が。
――カイト殿。構いませんが、その。…………たまごが、茹で上がりはしないものですか………。
――ゆでたまご。
――ええ………。
カイトは初め、いつもの習慣で、たまごを抱いたまま湯に入った。
温泉だ。
人間が入れるほどだから、熱いとはいえ、すぐさま茹で上がったりはしない。しかしがくぽの故郷、東方には、温泉に浸けておいて、とろりと蕩ける程度に茹でたたまごの料理があった。
半熟よりなおやわらかく、しかし確かにたまごには火が通っている。もはやそのたまごが、孵化することはない。
そのうえこのたまごは、常に冷たいカイトに抱かれている。普通、たまごは『温める』ものだが、おくるみにくるまれながら、このたまごは冷やされているも同然だ。
人間の体温ですら、時として熱くて火傷しそうだというカイトが生んだ、たまごだ。鳥のたまごなどより、さらに熱に弱いのでは。
まさかとは思いつつも一応確かめたがくぽに、カイトは束の間、空漠の表情を晒した。
そして数瞬。
――っったまごちゃっっ!!
がくぽは別に、カイトを脅したかったわけではない。
訊いて当然の疑問を訊いただけなのだが、蒼白になって湯から飛び出したカイトに、ひどく申し訳ない気持ちになった。
がくぽは、脱いだ自分の着物を『巣』にしてそこにたまごを寝かせ、傍に置いて入ればいいと提案した。だがカイトは首を横に振り、足湯に転向した。以降はずっと、足湯が続いている。
汚れるわけでもない神だ。もともと入浴の習慣もない。カイトはあくまでもがくぽの真似が愉しいだけなので、全身が浸かれずとも不満もない。
たまごはカイトの腹に、きちんと抱かれている。
さすがに湯気では料理もされないだろうと思いつつも、がくぽはいつでも微妙に、たまごから目が離せない。
機嫌の良し悪しで、殻の色を変える不思議のたまごだ。いくらなんでも、温泉で調理されてしまうような平凡さはないと思うのだが――
気になる。
諸々あったものの、日が中天に差し掛かった頃、がくぽはカイトを連れていつもの通りに森歩きに出た。
カイトはふらつきながら、しかしなんとか自分の足で歩いた。ふらついていた理由はもちろん、原因もわからないままに意識を飛ばしたせいでは――
――迂遠に言うと意識を飛ばしたせいだが、直接の原因で、体調不良を起こしてではない。
冷静になると罪悪感に襲われたがくぽだが、森の中に出れば自然の神たるカイトはみるみるうちに回復する。
一通り歩き回って帰途に着くころには、ふらつくこともなく、まったくいつも通りの歩みだった。
それはそれで複雑な心地に陥るのは、ある意味でがくぽの我が儘だ。
戒めつつも、カイトに誘われるまま、習慣的に温泉へと浸かり――
「カイト殿………たまごは、いつ、孵りそうですか?」
「んっ?」
がくぽの問いに、カイトはぴくんと体を竦ませた。なんのことはない。がくぽは問いながらカイトの片足を取り、くるぶしにくちびるを這わせているのだ。
弱くないところがあるのかと訊いたほうが早いカイトだ。くるぶしも、もれなく弱い。こんな程度のことでも、すぐに反応してしまう。
礼儀正しさは失わないものの、思いが通じてからというもの、がくぽは頻繁にこういう悪戯をする。ただしカイトが見るに、がくぽのこういった行為はほとんど、無意識だ。自覚していない。
意図的にカイトを心地よくしようとしたり、からかおうとしているわけではない。
ただ、カイトがそこにいるから触れる。誰よりも愛おしみ慈しむ、最愛にして相愛の相手ゆえに。
子供の前で馴れ合うことはと、なにかにつけてカイトに言うが、こういうふれあいは無意識であるために自制もない。意識しているときに強請られれば困惑した表情を晒すことを、平気で仕掛けて来る。
がくぽはべたべたとした接触が苦手なのだろうと――思い悩んでいたころの自分が、かわいそうにすらなってくるカイトだ。
触れたがるのも、触れることが好きなのも、カイトよりがくぽだ。
しかしなんといってもがくぽは無自覚なので、性質が悪い。真面目な顔で問いを放ちながら、答えようとするカイトに甘くやさしい愛撫を施して、言葉を嬌声に変えてしまう。
答えを求めていないわけではない――が、その手は溺愛する伴侶を愛撫することを、止めもしない。
そして、喘ぐカイトにむしろ不思議そうな顔を向ける。
これもこれで、少しばかり自分がかわいそうなカイトだ。
「鳥の雛と同じに考えられないことは、わかるのですが………」
「っ、ん」
ふくらはぎに軽く牙を立てられて、カイトは足を跳ねさせた。たまごを抱く腕に、きゅっと力を込める。
「………もぉちょっと、だよ」
喘ぐために上がる息を堪えつつ、カイトは答える。堪えた息によって声はわずかに掠れ、揺れた。
不思議そうに見上げたがくぽの無自覚さに、カイトは仕方がないと笑う。
仕方がないと笑っても、溢れるのは甘い愛おしさだ。
カイトは軽く屈むとがくぽの額にくちびるを落とし、濡れたそこにこてんと頭を預けて、瞳を閉じた。
「もぉちょっと。あとちょっと………ほんのちょっと。そしたら、たまごちゃんは割れて、――うまれてくる」
「カイト殿」
「うん」
うたうように告げられる期間は曖昧だが、それ以上にがくぽが気にかかるのは、カイトの声に含まれる色だ。
どこか、寂しく悲しい。
カイトは子供が生まれることを、心待ちにしていたはずだ。たまごのことも愛おしみ大事にしたが、それもこれもすべて、子供が生まれる前提があればこそだった。
殻を破って生まれてきた子供が、しあわせであるように――
そのために、甲斐甲斐しく世話に明け暮れたのだ。
まさかその日々が終わることに、一抹の寂寥を感じているわけでもあるまい。生まれた子供がどういった状態かはさておき、今度は実際に『子育て』が始まるのだから。
それとも神というものは生まれたらそこで終わりで、独立独歩、他の神と同じように、たまに会うだけの相手となってしまうのか。
「………その、カイト殿」
「ん」
男ノ神が子供を産むことも前例がなければ、神が卵生であることも前例がないらしい。
どうなるのかとここで訊いても、推測以上のものは出て来ないだろう。
となれば、なにかしら意気消沈しているらしいカイトに対し、がくぽが出来ることは――
「私は、お傍におります」
「え?」
口ごもりつつ言ったがくぽに、懐いていたカイトはきょとんとして顔を上げた。
屈んでいた体を起こすと、複雑な表情のがくぽを見つめる。
「その、………子供が生まれて後も、私はあなたのお傍におります。ずっと、生涯。あなたの傍で、あなたとともに、在り続けます」
「………」
口ごもり、言葉を探しながら懸命に言うがくぽを、カイトは首を傾げて見つめる。
つまり――
つまり、なにが言いたいのか。
尽くされた言葉より、曖昧に濁された言葉の意味を取るほうが、容易いのが古き神であるカイトだ。
可能な限り平易に直されながらも遠回しな言葉を追って拾い上げ、カイトはたまごを抱く腕にきゅっと力を込めた。
今はもうない、腹に宿った花。
もうないというのに、疼く気がする。
男への、愛おしさに溢れて。
「がくぽ」
「たとえ子供が独り立ちし、あなたから離れても――私は」
「うん」
たまごをきゅっと抱いて、カイトは体を丸めた。
心の底から、笑みが溢れる。
それは幸福だ。しあわせで、いっそ泣きたいほどにうれしい。
突き上げる愛おしさに限りはなく、溺れて息が詰まりそうだ。
愛おしい。
以上に、愛されている。
この男が傍に居続けてくれるなら、愛してくれるなら、望むことはもうない。
カイトの望みはもう、ない。
願い叶える神は笑う。たまごを抱いて。
抱いているのは、裏切りだ。
「がぁくぽ………ずっと、ずっと」
そばにいて。
言葉は言葉にならず、カイトは空しくくちびるを空転させた。