しょちぴるり

第4部-第18話

ふっと気配を強張らせたがくぽに対し、ミクはどちらかというと宥める顔になった。どうしてか空気がやわらかくなり、瞳の険も消える。

「絶対にじゃ、ない。ボクが駄目だったときには、君に引き継いでもらいたいってことだよ。ボクとしては不本意ながら、わりと博打だ。頼んだところで、いくら東方の剣士とはいえ、あんなものが斬れるかどうか」

「駄目だったときに?」

そちらのほうが余程、不穏だった。すべての不吉を治める冥府の女王が、力及ばないなどと。

己の腕を疑われる言葉が続いたこともあり、がくぽの空気は和らぐことはなく、ますますもって瞳と体に力が込められる。

ミクはがくぽから顔を逸らすと、うたい止んだものの腰を屈め、花と『話』をしているらしいカイトへ視線をやった。

「………たまごは、順調?」

はぐらかしているとも取れる問いに、がくぽは眉をひそめた。

真意を量ろうと即答しないがくぽにも、ミクは構わない。カイトを――おそらくは諸共に、腹に大事に抱えられたたまごを見つめている。

「ボクは役に立ってるたまごは守られている?」

「それは、もちろん」

真意は量りきれなくても、この問いに黙っているわけにもいかなかった。

ミクが与えてくれた祝福が、たまごを悪しき手から守った。ひいては、たまごを守るカイトのことも。

「………もちろん」

考えて、がくぽはくちびるを歪めた。

おそらく、カイトのことも守ったのだ――一時的に意識を飛ばしたが、その原因は特定出来ていない。カイトは未だにたまごを抱いて持ち運べるし、頬ずりもする。

悪しきものは触れられないたまごだから、もしもあのときにカイトも攻撃したとしたら、すべての辻褄が合わなくなる。

混戦していた。

神の捕獲と裏切り者の始末を負うキヨテルがおり、<世界>から完全に弾かれようとしている異端の子供神がおり――

どれが原因になったかなど、がくぽにはわからない。カイトもまた、困惑に口を噤んだだけだった。

原因がわかりますかと訊いたがくぽに、カイトは口を開きかけて空転し、しばらくしてからひどく困ったように首を傾げ、終わった。

それでも不調が残っていないかと訊ねれば、きちんと精査したうえで、大丈夫と答えた。

楽観的なことは相変わらずだが、カイトは『自分』を大事にすることを覚えてきている。

願い叶える神として生きてきたカイトは、自分の身を顧みない。自分を第一にしては、叶えられない願いもあるからだ。

願い叶える神であればこそ、カイトは他を尊重して己を疎かにする。

しかしがくぽという伴侶を得て、がくぽがなによりもカイトの無事としあわせとを『願う』ゆえに――

カイトはことがくぽと対するときには、自分のことも大事にしようとする。

今までなら精査することもなく、すぐさま大丈夫と答えていただろう。

カイトはがくぽを愛して愛されることで、変化している。

おそらく、善きにつけ悪しきにつけ――

「何者からもすべての不吉から?」

「………ミク殿?」

重ねられる問いは、執拗だ。

つい考えに沈んだがくぽだが、改めてミクを見直した。

神の時間は人間であるがくぽから見れば、永遠に等しいほどに長い。

だからといって、ミクは無為と思える問いに時を費やすような性質ではない。人を試すようなことはしても、それは逆に言って、早く気づけと促すためだ。

重ねられる同じ意味の問いはとりもなおさず、彼女の本来の目的であり、――場合によっては、がくぽの腕を借りたいという、その理由だ。

「すべての不吉は、ボクの配下だ。冥府の女王たる、このボクの。そのボクが命じた。すべての不吉は、たまごを避けて通れと。触れること能わずと」

「ミク殿」

たまごを見つめ、ミクは厳しい表情で言葉を連ねる。

がくぽはわずかに居住まいを正した。

訊きたかったことがあった。

『不吉』とは、なにかと。

彼女の配下に置かれるという、触れること能わずの令を突きつけられたものは、いったいなんなのかと。

「あ、ミク!」

しかしがくぽが口を開くより先に、明るい声が割って入った。

花との会話もひと段落したカイトは、ようやくミクに気がついたらしい。相変わらず踊るようでありながら、いつもよりは多少速く歩いてくる。

挫かれて言葉を途切れさせたがくぽだが、ミクは緩めなかった。

カイトが近づくにつれて視線も移動し、最終的にがくぽをひたと見据える。

「キミは、たまごに触れられる?」

「………っ」

「ミク?」

思わず顎を引いたがくぽとミクとを見比べ、カイトは瞳を瞬かせた。

今ようやく、来たところだ。会話の流れが掴めていないから、問いの意味がわからない。

きょとんとしてがくぽとミクを見比べてから、カイトは話題になっているらしいたまごに視線を落とした。そこではたと、気がついた顔になる。

「……っ!」

珍しくも憤然とした色を含んで顔を上げると、カイトはいつも大事に抱いているたまごを、多少乱暴にがくぽへと押しつけた。

「カイト殿っ」

「さわれるよ!」

受け取らなかったところで、カイトが取り落とすとは思わない。それでも慌てて受け止めたがくぽを見つめ、カイトはたまごを押しつける。

火花が散ることも、拒絶の音を上げることもない。

たまごは陽の光に蕩ける蜜のように甘くきれいな色のまま、大人しくがくぽの手に収まる。

「………さわれるよ」

がくぽが完全にたまごを受け取ったところで、カイトは手を離した。一時的な憤りから醒め、反対に物悲しい色を帯びてミクを見つめる。

「ミク殿、訊きたいことがあります」

自分がいることで、仲の良いきょうだい神の間に不和を撒きたくない。

がくぽはカイトがそれ以上言葉を連ねるより先に、問いを挟んだ。

ふっと注視したのは、問われたミクだけでなく、傍らに立ったカイトもだ。

微妙に訊きにくい環境だが、この機を逃すわけにもいかない。

「『不吉』とは、なんですなんの根拠と基準を持って、不吉であると断じられるのですか?」

「………」

がくぽの問いに、カイトは瞳を瞬かせた。言っていることが理解出来ていないときの顔だ。

視界の端でちらりと確認して安堵し、がくぽはミクを見据えた。カイトには悪いと思うが、問いが問いだ。

解体すれば、つまりがくぽは己を罪人と――『不吉』であると定めているのに、どうしてたまごに触れられるのかという問いになる。

カイトにとってがくぽはひたすらに、『善きもの』だ。

ろくな出会い方をせず、イクサ場に生きてきたことも知っていて、それでもカイトは初めからがくぽを善きものとしている。

自分で自分を悪しきものに分類していると知れば、泣くほど怒るだろう。

今、ミクの問いに憤ったように――

意味を図るように、しばらく黙然とがくぽを見つめていたミクだが、ふっとくちびるが歪んだ。

笑みの形になると、軽く肩を竦める。

「カイトにとって、だよ。善きと悪しきを定めるのは、カイトだ」

「………カイト殿?」

「え?」

予想外の答えに、がくぽは手の中のたまごに目を落とした。追いついていけない会話に自分の名前を聞いたカイトも、瞳を見張る。

戸惑うがくぽとカイトに、ミクのくちびるはつくりものの笑みから本物の笑みに変わった。苦いものを含んで、晴れることはないまま。

「カイトにとって望まぬ手を伸ばすものは、悪しきであり、不吉だ。逆も然り。カイトにとって望む手を伸ばすものは、善であり、幸いだ」

「………」

カイトは、がくぽを善きものとしている。

口にして『わるい』とは言わないが、キヨテルのことは嫌っている。伸ばされる手は、個人の資質に関わらず、望まないものだろう。

そうやって、辿っていくときに――

厳重に体をくるむ厚布に、今は指先まで隠す冥府の女王は肩を竦める。

「とはいっても、カイトの好悪の感情がそのまま反映されるわけじゃない。 <名懸け>の言葉とおんなじ――カイトはいわば、力の媒体に過ぎないんだ」

「媒体、ですか」

わずかに眉をひそめたがくぽに、ミクは意外に幼いしぐさでこっくりと頷いた。

「そう。『カイト』自身はいちいち、これはいい、悪いとは意識しない。判断もしない。ただ、<世界>の定めに則った、たまごにとっての善いと悪いを、媒体として『カイト』が感じ、選別し、掛けられた守りが反応する」

「………っ」

「………がくぽ」

がくぽの手が緩みかけ、カイトがそっと手を添わせた。落とすつもりなど毛頭ないが、動揺が募ったがくぽは珍しいほどに気弱な表情をカイトへと向ける。

穏やかに見返したカイトは、がくぽの顎にちゅっと音を立ててくちびるをぶつけ、たまごを受け取った。

素直に渡したがくぽは、おくるみを整えるカイトを半ば呆然と眺める。

名懸けの言葉――神の名に懸けて告げられる、<世界>の真実だ。知らないことですら、偽りは偽り、まことはまことと断じることが出来る、がくぽには理解不能の神の力。

カイトは常から、がくぽを善きものとしていた。

けれどそれはきっと、カイトの純然たる好意からで――<世界>の基準で量るなら、自分は悪しきものだと。

自分の罪を、流した血を、吸った命を知っていればこそ、がくぽは多少の居心地の悪さとともに、その判断を受け止めていた。

が、たまごの反応が、カイトを通してとはいえ、<世界>の定めに則るなら――

「………っ」

「頑固だな、この男!」

思い上がってはいけないとくちびるを噛んだがくぽに、ミクは一転、楽しそうに笑った。

おくるみを整えたカイトは顔を上げ、不思議そうに首を傾げる。反射的に腰を捉えて抱き寄せ、がくぽはカイトのくちびるを塞いでいた。

「ん、ん………っ」

思い上がってはいけないと、言い聞かせる先から溢れる想いがある。

胸に満ちて、涙を呼ぶものが。

「………がくぽ」

「……あなただからです、カイト殿」

激しく貪られ、熱に蕩けながら見つめたカイトに、がくぽは小さく感謝をつぶやいた。

カイトはがくぽに出会って、変わった。変わろうとしている。

がくぽも同じだ。

カイトに出会い、愛したことで、変わった。おそらくは、変わった――悪から善へと成ったというなら、それはすべて、カイトに出会い、愛したゆえに。

「あなただから――」

「………ぅん」

抱きしめてささやくがくぽに、カイトはこてんと頭を凭せ掛け、甘えるように擦りついた。意味はわからなくても、がくぽの覚えている感謝と愛情は伝わる。

それは心地よく、きれいなものだ――きれいと断じられるなら、とりもなおさず、善きこと。

そんな二人に、はふんと届いたのが、ひどく湿って根暗なため息だった。

「このおばかめおとが………キミたちに今度、時と場所と場合という概念について、じっくりと教授して上げよう。この冥府の女王、<みくとらん>が、直々にね!」

ため息を裏切らない、じめじめとして陰気な雰囲気を纏ったミクはぼやき、短い夏に高く晴れる天を見上げた。