天を仰ぐミクの瞳は、髪と同じく森の色だ。
時として奥深く閉ざされた森の色にもなれば、こうして天を仰いで陽を受けると、若々しくいのちに萌える春の森の色にもなる。
しょちぴるり
第4部-第19話
カイトを抱きしめたがくぽははたと我に返り、多少気まずくミクを見た。
「すみません」
「いいや。ちょうどよく、時間も潰せたしね」
呆れた色を含みながらも、ミクの声にはこれまでと違う緊張が混ざった。
イクサ場に生きてきた歴戦の剣士らしく敏感に察して、がくぽはカイトを抱く腕に力を込める。
その顔が、ふと歪んだ。
違和感。
「………っ!」
「がくぽ?!」
抱く腕に力を込め過ぎて、痛みに驚いたカイトがもがく。力を緩めてやろうとしても、がくぽの体は咄嗟に言うことを聞かない。
強張るがくぽへちらりと視線を投げてから、ミクは野辺の中央へと体ごと顔を向けた。
「なんだっけ………人間風に言うなら、『役者は揃った』ってとこ?」
「ミク、どの、?」
つぶやかれる言葉に、がくぽは懸命に視界を凝らす。
叫ばれる、違和感。
脳髄を絞り上げ、息を圧し、体の自由を奪う――違うちがうちがうちがうちがうと、ひたすらに違うものを違うと糾弾し、弾劾し、厭う<世界>の上げる声。
ミクの視線の先を追えば、そこには違和感の元たる子供神がいる。
しかしここ最近とは違い、その体はしっかりとした存在感を持って、地に足をつけていた。
世界に存在を禁じられ、狭間に潜りこんでいるどころではない――もはやはっきりと、<世界>に『いる』としか言えない、その存在感。
なおのこと、叫ばれる違和感は激しさを増して、視界を眩ませる。
「………っ」
「が、くぽ?!」
意思に因らず強張る体を懸命に動かし、がくぽは抱いていたカイトを背後へと庇った。そのうえで、剣に手を掛ける。
思考が清明に戻ることはないが、柄に触れた途端、波立ったがくぽの心はある意味で凪いだ。
如何なる状況にあろうと、剣に手を掛けた以上は膝をつくことなかれ、退くことなかれ、負けることなかれ。
能わぬときには、死あるのみ。
脊髄に叩き込まれた本能に等しい教えが体に巡り、強張る筋肉は解けることはなくとも、臨戦態勢へと運ばれる。
「す………ふ………」
気を張り巡らせるための呼吸法を行うがくぽをちらりと振り返って、ミクは笑った。
「さすがは、東の剣士だ。呆れるのも通り越して、当然みたいな気がしてきたよ、もう」
「ミク?がくぽ?!」
後ろに庇われたカイトは戸惑う声を上げ、急激に具合が悪くなったように見えるがくぽを案じ、表情を揺らがせる。
「いたいの?くるしいの?おれ――」
「残念ながらうたう暇はないんだ、カイト。うたっても、無駄だしね。あれがいる以上、利かない。一時凌ぎにすらならないよ。かえって悪い」
「ミク?」
苦痛を和らげるうたをうたおうとしたカイトを止め、ミクはくちびるだけを笑ませて野辺の中央を指差した。
「終わらせないといけない。時が来たんだ。今度こそはすべてを終わらせて、なにもかもを<正>に戻さなくちゃいけない。異物を完全に排し、<世界>の均衡を取り戻す」
「おわらせる………?」
戸惑いながらミクが指差す先に視線をやり、カイトの瞳は揺れた。
生命を生んだ、あたたかな南の海を宿すカイトの瞳だ。遠く離れた北の地に来てもそれは失われることなく、同じく生命の歓びに満ちて輝く。
海が波打つように、カイトの瞳もまた、常に揺らいで定まらず、ひどく郷愁を掻き立てた。
いつか還れと、戻れと、誘い引きつけられて、離れることも出来ず――
「終わらせるって」
たまごを抱く腕にきゅうっと力を込め、カイトは戸惑いにさらに揺らぐ瞳をミクへと向ける。
「『終わらせる』って、なに、ミク?むつかしい、わかんない。わかんないよ!なにをいってるの?!」
「わからないことはないはずだ、カイト」
悲鳴のようになったカイトの言葉に、ミクは冷静に返した。相変わらずくちびるを笑みの形に歪め、野辺の中央に立つ子供神の姿を、正確に指差して。
脳髄を引き絞られる痛みの中でも、がくぽは驚きに息を呑んだ。
――まさか、見えている?
神の総意を持って世界に存在を禁じられ、時系の外へと弾き出された子供神だ。
総意ゆえに、神にはその姿が見えず、聞こえず、触れられず、感じられず、記憶すらもない。
これまでは、そうだった。
そこにいるのに、神はおしなべて姿を見ることが出来ず、聞くこともなく、子供神の存在を問えば首を傾げた。
歪みはあっても、明確な形となることはなく――
だというのに今、ミクは正確に子供神を指差している。
偶然ではない。完全に存在を認めている。
驚愕に染まるがくぽに構わず、ミクは背後に庇われたカイトへと、子供神を示し続ける。
「キミが鍵だった。キミが鍵の役目を負った。男ノ神でありながら、『破滅のうた』とともに『いのちのうた』を宿し、そして『いのちのうた』を選択することが――あり得ない歪ツを己に課すことが出来た、キミが。神の中でもっとも強靭な体と、意思を持ったキミだから」
「ミク」
「思い出したはずだよ、カイト。キミが鍵だ。キミが『子供を生み』、『禁忌の名を思い出す』ことが――そしてボクは」
怯えるように足を引くカイトから、ミクは子供神へと体を反した。
厳重にくるまれた厚布から出した、不安になるほど白い手を閉じ、開く。
その手は、いのちを吸い取る手だ。
たまごにこれ以上ない祝福を与えながら、直に触れればいのちを奪う不吉の手。
離れて立つ子供神を睨み据え、ミクは不吉の手を突き出す。
「今度こそ、終わらせる。同じ失敗など、くり返すものか。ボクはただひとり、冥府の女王<みくとらん>だ。すべての不吉はボクの配下。たとえそれが、創生の全能神であったとしても――」
「終わらせるって、なに、ミク?!」
カイトは再び、悲鳴を重ねる。
怯えて足を引きながら、懸命に踏み止まって冥府の女王へと叫んだ。
「終わらせるって、なに、ミク?!ちがう、ちがうよ!おれは『終わらせる』ことに、同意なんてしてない!おれは、おれが同意したのは――」
「カイト、どの」
心地よく癒しのうたを迸らせる咽喉が、裂けよとばかりに悲痛を叫ぶ。
カイトをそう追い込む相手への憤りを覚えつつも、がくぽはさらなる驚愕に染まった。
思い出している。
先だって、記憶のないルカですら覚えた違和感を、ひとり感じることのなかったカイトが。
叫ばれる言葉は、明確に子供神を差している。
間違いなく、カイトは記憶を取り戻している。ミクが思い出したことで存在を認め、指差すように。
そのものが存在する縁になるからと、子供神を時系から弾き出したときに諸共に禁忌として封じた『記憶』を――
いったいいつと戸惑う心とともに、叫ばれる言葉に安堵する自分もいる。
カイトは確かに、子供神の存在を禁じることに同意した。
けれどそこにあった思惑は、異端を厭うゆえではない。詳細はわからないまでも、言葉を迸らせる声に含まれる感情が、なによりも雄弁に物語っている。
情愛があった。
異端に生まれ、世界に疎まれる子供神を、慈しみ愛おしむ心が。
しかしカイトがそれ以上叫ぶより先に、たまごが不快な金属音を立て、火花を散らした。
「あ……っ!!」
眩しさによろめいたカイトだが、たまごを取り落とすことはない。
なかったが、その表情は絶望を宿し、これまでずっと愛情だけを注いできたたまごに向けられた。
たまごが弾き飛ばしたのは、不吉のもの――一瞬で間合いを詰め、触れなんと手を伸ばした子供神だった。
ミク言うところによれば、カイトが不吉と断じたもの。
「ちっ」
行儀悪く舌を鳴らし、がくぽは剣を抜いた。強張る体を無理やりに繰ると、世界の誰にも触れられないのにたまごに弾かれる子供神へ、追い打ちをかけるように刃を飛ばす。
「やっぱり、弾くか」
一瞬は眩しさに目を眇めたものの、冷静につぶやいたのはミクだ。動揺に染まってたまごを抱くカイトを眺めてから、剣を抜いて放つがくぽへ、視線を移す。
「そこじゃない」
「がくぽ!!だめ、やめて!」
つぶやきは、カイトの悲鳴に掻き消された。
動揺から立ち直れないまま、カイトは剣を抜き放ったがくぽへと嘆願を叫ぶ。
「その子たち、斬らないで!わるいものじゃない、わるいものじゃないの!!おねがい、剣を向けないで!!」
「カイト、どのっ」
その声に、実際に力が宿っていたわけではない。ただ言うなら、がくぽはカイトを剣の主に定めていた。
神としての力が宿らずとも、がくぽが己に課した誓約としての『主』の命は力を持つ。
がくぽは剣を引くと、カイトの前に戻った。
鞘に仕舞うことも出来ないが、構え直すことも出来ないまま、ただ背中にカイトを庇う。
「がくぽ……」
「後ろに」
「がくぽ……っ」
前へ出ようとしたカイトを、がくぽは後ろへとやった。
攻撃するなと言われれば耐えるし、カイトが『わるいものではない』と言う相手への思いも、察する。
しかし、それとこれとは別だ。
カイトは口にしては『わるいものではない』と断じたが、たまごは不吉として弾き飛ばした。
そこに矛盾があり、無視出来ない齟齬があり、がくぽが剣を仕舞わぬ理由になる。
「がくぽ………がくぽ、おねがい………おねがい。ごめんね、ごめん……ごめんね。でもおれ、約束したの………約束、してて」
「カイト殿」
動揺しているせいか、カイトの言葉は断片的で、支離滅裂だ。意味が取れない。
涙に霞ませながら懸命に謝罪をくり返すカイトを、がくぽは苦労して振り返った。
世界が叫ぶ。
――違うちがうちがうちがうちがうちがうちがう………
「がくぽに会う、ずっとずっとまえから、ずっとずっとまえに、やくそく、してて」
「カイト殿、意味が……」
しゃくり上げ、引きつりながら口早に吐き出される言葉に、がくぽはカイトへと手を伸ばす。
慰撫しようとした手はしかし、びくりと引きつったカイトに触れられず、中途半端に止まった。
「おれ、……やくそく、してたの………ごめ、ね……………ごめ、ね、がくぽ………っ」
「………」
浮かぶ涙を啜り取り、抱きしめて胸に埋め、謝る必要などないのだと言いたかった。
あなたが私に謝る必要など、なにもないのだと。
けれど、動けなかった。
怯えて見つめる、その瞳に。
カイトの瞳が宿す、がくぽへの怯えに。
どうしてと、愕然と落ちるがくぽの思考に、湿って根暗なため息が届いた。
「すべてが済んだら、やはりキミたちおばかめおとには、時と場所と場合ということについて、ボクからありがたい訓示を落としてやろう。それはもう、時間をかけてじっくりねっとりたっぷりと!」
閉じようとする思考に落ちたのは、冥府の女王の陰気な慨嘆だった。