修学旅行というと、電車移動かバス移動だ。
どちらのほうが他人への迷惑が少ないかを審議した結果、バス移動だろうという結論に達した。
走る密室という点で変わりはないが、貸切だ。他の乗客がいない=バス移動のほうが有利。
――と考えたのだろうと、俺は考えている。
任侠道の右派と正義
「ガイドぉおっっ!!高校生男子に『天○越え』の良さがわからないと思ったら大間違いだっ!!唸れぇっ!こぶしっ!!情熱をこめてっっ!!」
「――」
俺も高校生男子のはずだが、『天○越え』の良さはわからない。とはいえ、聡からは常々、本当に高校生男子なのかと疑われている。
まあ、それはそれとして。
「なにはともあれ無難に済ませたかったらヱヴァをうたえっ!!よしちょっくら俺が!!」
隣の窓際の席には、立ち上がってずっと叫んでいる聡がいる。
叫んでいる間はまだいい。ガイドが涙目だが、これも仕事だ。給料のうちだ。酔客のことも覚悟のうえでなければ、ガイドになどなってはいけない。
もちろん、聡は酒など飲んでいない。
いないがある意味、こいつは年中無休で酔っ払いだ。それも悪酔いの。
再度言うが、叫んでいる間はまだいいのだ。
そのうち席を立って縦横無尽に走り回り、挙句にはバスの屋根に登り出す。
――教師は、中学校からそういった申し送りを受けていないのか。
たとえ他の乗客に迷惑でも、電車の屋根に登るほうが至難の業だ。だからまだ、電車のほうが安全かつ予定通りに走行できると。
しかしすでに決定はなされ、俺も聡も教師も生徒もバスの中だ。
そして聡の席は、俺を乗り越えては暴れないだろうと、窓際。
鍵が手動で開く、窓際。
これ以上、言うべきことはない。
というわけで。
「うたう前に俺の話を聞け、この害虫」
ぼそっと、小さくつぶやいた。
途端、聡がべしゃんと椅子に腰を落とす。
「ちょっと、達樹さん?!今なんか、すっごい罵倒聞こえたけど!!」
「そうか、聞こえたか………」
どうなっているんだろう、こいつの聴覚。
わずかに好奇心を刺激された俺に構わず、聡はぎゃんぎゃんと喚く。
「感心してる場合じゃないでしょ!常々思ってるんだけど、達樹は」
「右手をご覧ください」
「はえ?」
抗議を聞くことなく、俺は右手を差し上げて聡に示した。
きょとんとした聡は、右方向へと顔を向ける。
「え?なんかある?特に名所系は………」
「この駄虫が」
「だむし?!」
ぎょっとした顔で振り返った聡に、俺は差し上げた右手を振る。
「右手を見ろと言っただろう」
「え、だから……………ちょっと待って。そんなまさか」
聡は盛大に顔を引きつらせ、仰け反った。ごつ、と窓に頭をぶつける。
「右手を見ろって、『右手を見ろ』ってことなの?!」
「そう言っている」
「いやいやいや!!」
叫ぶ聡に、俺はまた右手を振った。
まさか聡に限って、これに引っかかるとは思わなかった。
俺が本気で「『右手』をご覧ください」と言っても、しらっと「右手」を見るものだと。
「というわけで、『右手をご覧ください』」
「えええ…………っ」
まだわずかに仰け反りつつ、聡も今度は素直に俺の「右手」を見る。
「…………んでなに?」
「キスしたいならさせてやるが」
「え、ほんとに?」
「とりあえず、これをこう」
「は?」
言いながら、俺はきゅっと拳を握った。
きょとんとして、聡は拳に見入る。
さらに俺は、軽く手首を振った。
「そしてこう」
「ごふっ!!」
見惚れている聡の腹に、俺は拳を叩きこむ。
珍しくもだるだるに油断しきっていた聡は、まともに俺の拳を受けた。座席の上で、腹を抱えてうずくまる。
「た、たつきさ………………?!」
「うるさい。やかましい。隣の席で、ぎゃんぎゃん喚くな」
「あ、新しい…………ある意味、新しい………………まったくめでたい気もしないけど、新しくはあるよ、達樹…………!」
「女房と畳はというやつか」
その、なんでも新しければいいという発想は正直、どうかと思う。
古女房であればこそ通じる会話の機微や、日常生活の潤滑にして円満な運営というものもあるだろう。
俺は安定志向なので、新規挑戦が含まれる新しい女房への気軽な乗り換え案には反対だ。
腹を抱えたまま、聡はよぼよぼと顔を上げた。
「た、たとえ畳を新しくしても、達樹さんはふぉーえばーらぶ………っ」
「ああ、物凄く安っぽい響きだ」
「安っぽくてもいい。ふたりで永久に。というわけで」
唐突にきりっとした顔になると、聡はがばりと立ち上がった。
「ななばん郷田聡っ、愛を込めて力の限りにうたいますっ!!『ふぉおおえぶぁあああら』っ!!」
再び叫びだした聡の腹に、俺はまたも拳を叩き込んだ。
まともに受けた聡は、座席にうずくまる。
「た、達樹さん………愛が痛い」
「だから、うるさいと言っている。いいから座れ。そして右手を見ろ」
開いた右手を振った俺を、聡は胡乱げに見た。
「達樹さん………一回うまくいったからって、そう何度もおんなじネタをやるのってどうかと。柳の下のどじょっこふなっことか、待ちぼうけとか」
「あちらがかの有名な、縁切り松のある公園となります」
「えええ?!」
「本日のお昼休憩場所でございます」
「んなんだとぉおおおっ?!そんなこたぁ俺がゆるさ、げふっ」
いきり立って叫ぶ聡の腹に、三回目の拳。なんだ、今日はヒット率いいな。
仄かに機嫌を上向かせつつ、俺はうずくまった聡を呆れたように見た。
「嘘だ。わかるだろうが。旅行のしおりを読んだだろう。今日の昼休憩はもっと先だ」
「………そう、そーでし…………つか達樹さん、DVカレシにもホドが」
「というわけで、右手をご覧ください」
「今度はなにぃいいいっ?!」
なぜか涙目で顔を上げた聡に、俺は右手を差し出した。
「左手をお出しください」
「は?左手?俺の?」
きょとんとして出さない聡の左手を、俺は勝手に取った。腕を絡めると、きちんと指を組んで繋ぐ。
「え、え、達樹?達樹さん?」
狼狽える聡の肩に凭れると、俺はあくびをひとつこぼした。車に乗ると、ほどほどのところで眠気に襲われるのが、昔からの俺の癖だ。
「いいか、聞け」
「はいっ」
なぜかぴんと背筋を伸ばして返事をした聡を、俺はわずかに顔を上げてきろりと見た。
「俺はこれから寝る。騒ぎたいなら騒いでもいいが、絶対に手は離すな」
「は?え?寝んの?騒いだら起きちゃう…」
「もし騒ぎに夢中になって手を離したら」
「ぅえ?」
聡がわずかに身を引く。
俺はにっこりと笑ってやった。
「俺はおまえに嫌われたものとみなし、世を儚んで、即座にバスの車窓から飛び降りてやる」
「っっっ!!!」
「ではおやすみ」
壮絶に引きつった聡がなにか反駁する前に、俺は再び肩に凭れて、さっさと目を閉じる。
聡の体は、かちこちに固まっている。そうでなくても男の体。
筋肉ばかりで硬いのだから、そうまでして固めたら、枕としての使い心地がさらに悪くなる。
思いつつも、俺の意識はふわふわと眠りに飲み込まれていった。
夢に飲み込まれる寸前、聡が深くふかくため息をついて、体から力を抜いて、俺は少しだけ笑った。