「ただいま」

玄関に入ってそう声を上げたが、返って来たのは沈黙だった。

確か予定では、先にカイトが帰っているはずなのだが、「おかえり」の声はない。

I see You

目を落とした三和土にはきちんとカイトの靴が揃えて置いてあるから、家にはいる。

けれど、迎える声はない。

とはいえ深く気にすることはなく、メイコはブーツを脱ぐと家に上がった。

仕事から帰ってきたカイトはまず、おやつでご褒美のアイスに夢中になって耳が疎かになるし、この時間だと大体、リビングの陽だまりの中でお昼寝に勤しんでいるからだ。

返事がなくても気にすることなく、メイコはまず、キッチンへと向かった。

「んー」

冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出してコップに注いで、まずは一杯。

こくっと飲み干してから、コップをシンクに放り出し、今度はマグカップ。

そこに、朝のうちに保温ポットに作り置いておいた、温かいコーヒーを注ぐ。

ほかほか湯気の立つそれを注意深く啜りつつ、再び冷蔵庫の前に行った。

「んー……」

冷蔵庫に貼られたホワイトボードで、家族の予定を確認。

だれひとりとして、予定に変更はない。

だから今日の夕飯当番はおちび二人組で、メニューはお子様メニューで確定。

「…………塩辛……たこわさ…………あと、ししゃもがあったか…………」

メイコは眉をひそめ、冷蔵庫の中身を思い返した。

塩辛とたこわさは、パックのままテーブルに並べればいいだけだ。なのでとりあえず、自分用にはししゃもだけ焼くことにする。

その他のつまみは、まあ、お子様メニューで妥協して。

「…………ふん」

鼻を鳴らし、メイコはホワイトボードを軽く、爪弾いた。

ちょうどいい温度になったコーヒーをこくっと飲み干して、カップをカウンターに。

置いて、くるりと踵を返すとキッチンを出て、居室の集まる二階へ。

踊るような軽い足取りで階段を上って、そのまま勢いを衰えさせることなく、ずかずか進むのが、自分の部屋ではなく――ここ三日ほど、帰る帰ると言って、一向に帰ってこないひとの部屋。

「…………」

寒い季節だから、部屋の中が冷えているのは当然だ。

けれど、主が不在の部屋の寒さは、もっともっと、格別で。

暑さに弱いロイドだけれど、この寒さだって、弱いし嫌いだ。

「…………なによ。着替えを取りに来るとか、ほんのちょっとでも、寄ることくらい、出来るでしょうに…………」

こぼしながら、メイコは主が不在の部屋に入る。

三日ほど帰ってこない、メイコの「マスター」だが、まったく顔を合わせていないわけではない。

彼女はメイコのマスターであると同時にプロデューサ、つまり仕事を管理する役だから、放りっぱなしにしておくことはない。

だから、外で何度か、顔を合わせはした。

合わせはしたけれど、そのときの彼女はかっちり仕事モードで、――これがもう、詐欺としか思えないのだが、仕事モードと私事モードのときのマスターというのが、雲泥の差なのだ。

仕事とプライヴェートは分ける主義とか、そういうレベルを超えている気がする。

そういう意味でもって、メイコはここ数日、「マスター」と会っていなかった。

年末だから忙しいのは当然だし、この時期に暇ではないというのは、いいことだ。

安定した職種でもない。この時期に暇ということは、とりもなおさず来年以降の生活が不安だということになる。

だから、いいことだけど。

だけど。

「…………あんなに熱烈に口説いてたくせに、メールも寄越さなくなるとか、そんなに仕事が忙しいの?」

メイコはぼそっとつぶやくと、冷たいベッドに勢いよく座った。

座って足を組み、頬杖をついて瞳を眇める。

「…………………………別に、口説いてくれなくてもぜんっぜん、構わないけど!!むしろうざくなくて、いいけど!!」

だれにツッコまれたわけでもないのに言い訳をして、メイコはさらに瞳を眇めて頷いた。

「ただ、疲れているんじゃないかって思っただけよ…………そんなに忙しいんじゃ、まともに休めてないでしょうし、寝ているかも怪しいわ、あのひと。ほんっと、人間として基本がなってないんだから」

だれもいないのに解説して、メイコは黙りこんだ。

主が三日ほど不在の部屋。

そうでなくても、あまり帰って来ることはない。

そのうえ香水をつける習慣もなく、ごく自然体で過ごす人だから、これといった特徴のある印象的なにおいもない。

そのせいか、部屋の中に残る香りは、あまりにあえかで無きが如しで。

縋るよすがもないから、さらにさらに、気持ちは募って。

「…………疲れているんなら、ぎゅってしてあげるのに」

ぼそっとつぶやいて、メイコはしぱしぱと瞳を瞬かせた。

この家にはおかしな家訓がいっぱいあるけれど、その中に「疲れたときにはぎゅっとしてもらうと、早く元気になる」というものがあった。

もちろん、マスターが言い出したことだ。

ばかじゃないの、と言ったが、マスターは笑って、メイコをぎゅっと抱きしめた。

――吹っ飛ばない?

知らないわよ、と腐したけれど、確かにこころがほんわりと和んで、安堵に緩んだ。

あんたが吹っ飛ぶって言うなら、あたしがぎゅってしてあげるわよ、と言い返して、逆にマスターを抱きしめたら、ほんとうにうれしそうに、まるで子供のように笑って。

――メイコさんに抱きしめてもらうと、ほんとに疲れを忘れるわ。

嘘でもおべっかでもなく、本心からそう言っていると、わかる――そんな、声。

そう、言われたら。

「…………ぎゅってしてあげてないのに、平気なの…………?」

つぶやきながら、メイコはベッドにゆっくりと倒れた。

枕に顔を埋めると、部屋に残るよりはるかに強く、彼女の面影が香った。

「…………」

もぞもぞと動いて、メイコは枕をぎゅっと抱きしめる。

顔を埋めて、瞳を閉じた。

こんなことをしても、本体の彼女の疲れが癒されたりはしないけれど。

「…………ふ」

――抱きしめてほしいのは、あたしだ。

わかりきった答えをきちんと思考に乗せて、メイコは小さく笑うと、意識を暗闇へ落とした。

起きたとしても、彼女がいつ帰るのか、さっぱりわからないのだけど――

さらりと、髪を撫でる手。

やわらかに頬をつまむ、少し冷たい指。

感覚を、言葉に直すならば、それは。

「………………変わらないのね、メイコさん」

困ったような、うれしそうな、微妙な声音。

わずかに意識を持ち上げて、メイコは瞳を開いた。

顔を覗きこんでいるのは、今日も帰らないと思っていたひと。

やわらかに微笑んで、見つめているその顔は、少しばかり血色が悪く、肌もぼろぼろだ。

まともに休んでもいなければ、手入れもまったくしていないのだろう。

呆れたひと。

だめなひと。

ほんとに、手のかかるひと。

意識に乗せて、メイコは微笑むひとを見つめた。

「…………起きた、メイコさん?」

「…………」

「えーっと、おはよう?」

「……………………」

ここは、彼女の部屋。

横たわる、彼女のベッド。

そしてメイコが安眠くまさんとして抱きしめていたのは、彼女の枕。

「………………………………」

「ええっと、あのね…………って、メイコさん?!」

瞳を眇めると、メイコは枕を放り出し、屈みこむひとを力任せに抱き寄せた。

同じ女性でも、ロイドと人間では基本的な力に差がある。体格がほとんど変わらなくても、その気になればメイコのほうがずっと、力が強い。

マスターは抵抗の隙もなく、ベッドに引きずりこまれ、メイコに抱きしめられた。

「メイコさん?!なんか新しいわ展開が新しいんだけど!」

「うるさいわね」

胸の中で喚くマスターをさらに抱きしめて締め上げ、メイコはその頭に顔を埋めた。

人間としては、体温が低いマスター。

それでも人間だから、やはり抱きしめるとぬくもりがあって。

相変わらず、香水もつけていない、自然な体臭。

嗅いで、メイコは瞳を閉じた。抱きしめる腕に、さらにさらに力をこめる。

「………………あんた、またお風呂に入ってないわね…………臭いわよ、もう…………」