B.Y.L.M.-ExtraEdition

Melody-scene3

「………よからぬ気配がする」

ぼそりと吐きだされた少年の言葉に、物思いに沈んでいたカイトは、はたと顔を上げた。上げた顔の、向けた瞳が花色としっかり見合って、カイトは意想外に瞬く。

がくぽがそう言ったからにはきっと、屋敷の外になにか――敵か、『敵』と見做さないまでも、不穏ななにかがいるのだろうと、カイトはそう思ったのだ。

だから咄嗟に、屋敷を囲う結界に意識を巡らせもしたし――

しかし少なくとも今、結界に触れるものはない。そしてがくぽは『外』ではなく、カイトをこそ見据えている。

ということは、がくぽが感知した『よからぬ気配』とは、カイトの――

「ぅっ……」

身に覚えがあって、少年の直ぐな瞳と見合えず、カイトは後ろめたく視線を泳がせた。

つまり、がくぽがそう言いだす直前のカイトだ。

物思いに沈んでいたわけだが、これは単に『考えごとをしていた』というものではない。

実際カイトは『沈んでいた』。自己卑下の泥沼に嵌まっていたのだ。

――できることがない。

なにがと言って、がくぽの生まれ日の祝いだ。

カイトは日頃の感謝もこめ、夫の生まれ日を自らの手で祝ってやりたいと考えた。

とはいえ、万職を極めんとするような夫ほどの器用さはないカイトだ。自らにできる限りのこととなれば、ほんとうに字義通りの、ささやかなものとなる。

ほんとうにほんとうにほんとうにささやかなものとはなろうが、だとしても妻として、夫の生まれ日くらい、なにかしてやりたい。できる限りのことではあれ、しかしせめてできる限りのことは――

「………え待て……『できる限り』できる限りって、………え………?」

――そこでカイトがはたと思い至ったのが、自らの『できなさ』ぶりだったというわけだ。

カイトは料理ができない。裁縫もできない。

家具や建具といったものを造ることも、修繕することもできず、ほんの小さな細工物や飾り物ですら作れない。

うたは教養程度であまり親しまず、絵画も観る側であって、描くことはない。詩も教養程度であり、すでに作られた古詩を時宜に応じて口ずさむことはできるが、自ら創作することはない。

花と転じた身であり、意味を『根』と変えた足が、自由に動かないから――

といった理由を超え、否、いっそまったく関係なく、カイトにはごく一般的な、在野において生活するための能力の、いっさいがなかった。

他国に抜きん出て厳しい哥の王太子教育を受けてきたカイトだが、そういったものを学ぶ時間はなかったからだ。

カイトが学んだのはあくまでも帝王学であり、厳しく仕込まれたのも帝王学であり、優れた成績を修めたのも帝王学であり――

くり返そう。カイトは王太子だ。王太子だったのだ。まさかそういった技能が必要になるとは、思わないではないか。

しかして運命は変転し、悪戯にも悪戯を重ねた挙句が、『今』だ。

そしてカイトに押された――自ら押さざるを得なくなった、『生活無能力者』の烙印だ。

――できることがない。

ささやかな、できる限りのと、カイトは自らに定めた。

元よりうっすらと、一般的な生活における自らの技能の低さを自覚すればこそ、最愛の夫相手の祝いであっても、無理はしないと抑えたのだ。

自らの力量も顧みず無理な背伸びをした挙句、夫の手やこころを煩わせるようなこととなれば、本末転倒も甚だしい。

だからと、ささやかな、自らに無理なくできる範囲のと、律したというのに――

その、ささやかな、無理なくという程度ですら、できることがなかった。まるで思い浮かばなかった。

無慈悲なほど、あまりに酷に、果てなく厳しく、カイトには『できることがない』。

――そういったふうに、がくぽが声を上げる寸前まで、カイトは自らのできなさ加減を改めて思い知らされ、無能力ぶりに打ちのめされていたのだった。

こうして思考が切られた今となれば、そうまで思いつめることもないのではという気になる。

もう少しだけ落ち着いて、冷静に考えれば、なにかひとつくらい出てくるだろう。どのみちささやかであることに違いはないだろうが、まったくなにもないということはないはずだ。

とにもかくにも、狭視野に陥った挙句、焦って巡らせる思考ほど、ろくでもないものはない。

夜の今は少年であったとしても、がくぽの本来は騎士だ。カイトに偏向と傾倒著しい忠誠を誓う、想いの強い――

カイトが嵌まった泥沼の詳細はわからないまでも、なにかしらろくでもない思考に陥っているとは、感じたのだろう。

嵌まる泥沼の深さや濁りが過ぎると感じればこそ、思わず警告を上げずにはおれなかったという。

そうまで思いつめた自らが恥ずかしくもあり、気がついて止めてくれた夫がありがたくもあり――

複雑な胸中とともに、カイトは幼い夫をちらりと窺った。

しかしすでに、がくぽはカイトを見ていなかった。厳しく眉をひそめた憂う顔で腕を組み、顎を押さえ、今度はこちらが思い悩んでいる。

「ひどくよからぬ気配がする……カイト様がまた、なんだかわけもわからぬうちに俺を悦ばせ尽くした挙句、しあわせで窒息させるような………否しかし、まだやれることがあるというのか…あるものか……ないよな……………ない。うん。………が、油断するとすかさず隙に突きこむからな………よからぬ気配を芬々に漂わせていることもあるし、警戒しておくにこしたことはないだろうが――どうなっているんだ、カイト様は………?」

「………………………………………………………………」

ぶつくさとこぼされるがくぽの懊悩を聞いているうちに、カイトの眉間には先とは違う理由で、深く深い皺が刻まれていった。

同時に、ふつふつふつと、腹の奥底からこみ上げ、沸き上がってくるものがある。

カイトはきゅっと、くちびるを引き結んだ。

――できることがない、だと?

カイトは直前の自らを、甘ったれるなと張り飛ばした。悠長にもほどがあるし、怠惰も極まる考えだと。

そんなだから、最愛の夫からこんな仕打ちを受けるのだ。

たかだかこれまで程度のことで、もうカイトの力が尽きただろうなどと、――

まったく自分の夫ときたら、妻のことをどれだけ冷血だと思っているのか。見くびってくれるにもほどがある。

ここまで虚仮にされて黙っていては、男が廃るというものだ。

こうなったらどうあっても、がくぽの生まれ日を祝ってみせる。なりふりなど構っていられるものか。

夫に思い知らせるためなら、カイトはなんだってしてやろう。そして言う通り、否、ほんとうの意味でもって、しあわせ漬けで窒息させてやるのだ。

「この疑い……晴らさでおくものか………!」

懊悩する、がくぽの傍ら――

概ねその、憂いのたねを倍加する勢いで、カイトは固くかたく決意していた。

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